短編2

□永遠を捧げた
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 何だかダルいから薬だけもらって帰ろうと、足音が反響するくらい静かな廊下を歩く。向かう先は保健室。明かりが点いているのに安心して、笑みが浮かんだのも束の間。


 密やかに、女の声がした。


 艶かしくて艶やかで、黄瀬は中で何が行われているか理解した。お盛んだとは思うが不快には感じない。けれど嫌な予感が拭えなかった。
 もしかして――いつの間にか立ち止まっていた足を音を消して動かし、耳を済ます。聞こえてくる声のうち、男の方に覚えがあって小さく舌打ちする。


 まぁた浮気っスか、青峰っち。そんなことしてんなら、赤司っちを俺にちょうだい。


 真っ最中の青峰には、れっきとした彼女がいるのに。今彼が抱いている女よりよっぽど素敵な彼女が。
 チラリと腕の時計を見る。六時前。なら、彼女はまだ部室にいるだろう。このことを知らなければいいんだけれど。それでもまた嫌な予感がして、足は音を立てて部室へ走った。
 少し重い金属製の扉はピタリと閉まっていた。閉じ籠っているような、閉ざされているような、そんな扉。それを黄瀬は一息に開けた。


「っ、――きせ……」


 何事にも動じないはずの彼女は、肩をビクリと上げて、目を見開いて振り向いた。電灯が白い頬の涙の跡を照らしている。真ん丸だった目はぐにゃりと歪んで、少し血の気を失った唇が震えながら言葉を紡ぐ――青峰が、と。
 優しく、を心がけ、黄瀬は腕を広げた。


「胸、空いてるっスよー」

「…いらない」


 浮気になると思っているのだろう。彼女はどこまでも誠実だ。
「ちょ、そこ断っちゃうんスか!?」とちゃかして、ゆっくり近づいて頭を撫でる。柔らかい長い髪を、何度こうして撫でたことか。

 虎視眈々と狙う猛禽の目は見せられない。優しい兄が妹を慰めるようにしか触れられない。

 つけこみたくない。

 自分なら彼女を悲しませたりしないのに。

 自分なら彼女を幸せにできるのに――そう思えないのは、彼女が愛しているのが、自分ではないからだった。



* * *



 青峰の浮気癖は、付き合い始めたわりと最初の頃からあった。初めは怒った。言及した。けれど別れるとは言えなかった。
 段々、怒れなくなった。代わりに泣くようになった。悔しくて情けなくて悲しくて、一人の場所で静かに泣いた。泣いてしまう自分が嫌だった。
 泣くようになってしばらくしてから、泣くと黄瀬が現れるようになった。最初ごまかしたり隠したりしたが、何度も何度も重なるから諦めた。


「赤司っちは、青峰っちを好きじゃなくなったりしないんスか?」


 新学期へ向けて冬が溶けだした頃、黄瀬が訊いた。例によって、青峰の浮気に泣いていたところを慰められている時のこと。
 嫌いにならないのか、と訊いてこないあたりが彼らしい――赤司は、痛みが収まってきた胸に手を当て、リボンを弄びながら答えた。


「ないよ。青峰がどんなことをしても、僕は青峰が好きだ」

「…青峰っち、一筋?」

「そうなるね」

「……、何か、吐き出したいこと、ないんスか?」

「…………黄瀬?」


 大好きな恋人に想いを馳せて目を伏せて、降ってきた声に視線を上げて驚く。


 何てつらそうな顔をしているのだろう、目の前の男は。泣きそうで、すごく痛そう。


 呆気にとられて瞬きをする。瞼を下ろして、上げた時には、黄瀬はいつもの黄瀬に戻っていた。優しい笑顔。兄ってこんな感じだろうか。
 さっきのは幻か――いや、違う。こんな至近距離で自分が見間違うわけがない。
 黄瀬が心の中ではまだあのつらそうな顔をしている気がして、なんとかしたいと気持ちがくるくる回る。


「……つらいよ」


 吐き出したいことはないのか、その問いに答えるしかなかった。黄瀬の顔は笑っているのだから。
 あんまり吐き出したくはなかった。吐き出すのは、たとえ弱音でも、突き詰めれば青峰への不満だ。
 他に何かないのか、考えて考えて思いつく。泣いていると、いつも黄瀬がしてくれること。黄瀬が泣きたい気持ちになっているのならこれでどうだ。


「ちょっと屈め」


 言われた通りにした黄瀬の黄色い頭に右手を伸ばす。モデルだからか何なのか、触り心地がいい。こっちも気持ちが安らぐ。これがアニマルセラピーなのか。
 目を見開いたあと、黄瀬が笑う。初めて慰められた時の自分のようだった。



* * *



 目を閉じると浮かぶ、つらそうな泣きそうな痛そうな顔。どうしても頭から離れない。


「――おい、聞いてっか?」

「――……、っ、あ、ごめん、聞いてなかっ、た」


 真っ暗な中に浮かんでいた黄瀬――そんなビジョンが消えて、現実の風景が視界を覆う。隣を見上げると不機嫌そうな青峰がいた。せっかく久しぶりに二人で帰れたのに、どうして黄瀬のことを考えてしまったのか分からない。
 隠す気のない舌打ちは正直胸に刺さった。だが表には出さない。弱いところなんかない、それが赤司征華だ。


 いやしかし、黄瀬には何度も弱ったところを見せているな…とんだ醜態だ。


 誰も来ないと思ったのに黄瀬が来たのが悪い――また思考が黄瀬へ行ったことに気付く。今度は青峰の話を聞いていたが、頭は目立つ黄色でいっぱいだ。
 そして、分かれ道で別れて一人になってから、もう一つ気付いた。



* * *



 珍しく赤司と青峰が早く帰ったから、黄瀬は一人で自主練をしていた。青峰と練習する時とはまた違った気合いが入る。自分一人の体育館をボールと駆け回る。足音もボールの音も耳に入らない。
 だが、勢いよく開かれた扉の音に、さすがに我に返らされた。轟音に驚いて見てみると、扉を開けた姿勢のままの赤司がいた。息が乱雑に切れている。


「あ、赤司っち……忘れ物っスか?」

「……どうしよう、黄瀬」

「へ?」


 俯いている赤司の表情は見えない。黄瀬はボールを脇に抱えて彼女の元へ駆け寄った。真ん前まで来ても赤い瞳を見ることはできなくて、けれどもシャツの裾を掴まれた。一瞬でシワができるくらいに。


「…どうしたんスか? 言ってくんなきゃ、オレにも分かんな――」

「僕は青峰が好きだ」

「っ、」


 今更すぎる、カミングアウトにならないカミングアウトで、たしかに胸が痛んだ。
 それを言うためにわざわざここまで走ってきたなら、もしかして牽制なのだろうか。自分は青峰が好きだから諦めろ、と。そんなこと、好きになった時にはもう分かっていた。それでも好きなんだから仕方ない――


「青峰が好き、…なのに何で、何も感じなかったんだ…」

「…?」


 ――どうも遠回しの拒絶ではないようだった。
 赤司の言葉の意味は、黄瀬には分からない。表にあまり出さず、けれど取り乱している彼女をどうにかしたくて、いつもしているように赤い頭に手を伸ばし、


「っ、触るな」


 パシリと鋭い音を立てて手は払われた。そのことに一番傷ついたのは自分だと思ったが、払った赤司の方が傷ついた顔をしていた。
 拒絶したことを後悔しているらしくて、何とかして笑わせたい、笑うまで行かなくても肩の力を抜かせたい、と頭を回転させる。


「赤司っち……感じない、ってまさかベッド事じょ――」

「…っの、馬鹿!」

「逆らってないのに!?」


 腹を殴られた。痛い。
 赤司は真っ赤な顔で腰に手を当てソッポを向いて、「デリカシーがない奴は親でも殺す」と呟いた。どう見ても恥ずかしいのを隠している。
 スンマセンと軽く謝って、今度こそ頭に手を乗せる。受け入れてもらえたことに安心する。難しい顔の赤司が両手で黄瀬の手を己の頬に持って行って、肩と心臓が跳ねた。自分の手と彼女の手の差にドキドキした。


 どうして、可愛くて赤い顔でそんなこと……ああ頬擦りまで始めちゃって無自覚っスか。


 大好きな人の頬に手を当てて、まるでキスする準備みたいな。頭が熱くなってボーッとする。
 自分の上半身が前のめりになっていくのを感じた。唇がどこかを目指して進んでいる。



「黄瀬…?」



 文字通り目の前で、声がした。途端に目が醒める。近すぎてぼやけかけた赤司の顔が視界いっぱいにある。頬に当てていない方の手は彼女の腰に回っていた。


「――っうわぁあああ! スマセンっしたぁああ!!」


 脛に額をぶつける勢いで頭を下げてダッシュで逃げる。体育館を出て、校庭をダイナミックに突っ切って、アスファルトを力強く蹴って虐めて。家と学校の真ん中辺りのところで息が切れて立ち止まった。塀にもたれて空気をいっぱい吸う。
 顔が熱いのはどう考えても走ったせいだけではない。


「最低だ……最悪だし……」


 最低なのは自分の行動で、最悪なのは状況だ。
 寸前で止まったとはいえ、さすがの鈍感もあれでは気付く。気まずいから転校したいと本気で思った。転校したら会えなくなるから考え直した。
 クラスが違うことを幸いだと思ったのは初めてだ。明日だって部活はあるから、会わないわけにはいかないが。


「…もう、慰めるの無理なんかなあ…」


 違う男のことで泣く赤司を慰めるのは辛かったけど、どこか嬉しかった。自分が少しでも彼女の心を軽くできているから。そして、あの二人きりの空間が、好きなのだ。
 生暖かい風に身震いする。そういえば練習着のままだった。来た道をのろのろ引き返す。

 体育館の電気は点いていたが、赤い色は見えなかった。



 
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