短編2

□忘れても忘れない君のこと
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 記憶を失ったまま、赤司は退院した。人間関係は忘れたが知識はあるようで、だからか赤司の父は赤司への態度を唯一変えなかった。赤司にはそれを悲しむだけの記憶がなくて、代わりに黒子達が悲しかった。
 記憶喪失を知られたくないというのは赤司の願いだ。黒子達はそれを聞き入れ、だが赤司の担任と保健室の先生、部活のコーチと監督、前主将の虹村にだけは話した。
 表向きはあまり変わらない。赤司が指示を出し、部員が動く。主将の仕事も知識の範囲に入っていたらしい。赤司の指示は以前と変わらず完璧だ。
 誰も赤司が他人のことはもちろん、自分が誰なのかすら忘れてしまったことに気付かない。ただ、噂の種のように時たま囁きあった。


 最近黄瀬と赤司、仲いいな、と。



* * *



「黄瀬」
「はいはーい赤司っちの黄瀬君っすよおー」
「…………」
「スマセン! 悪かったっスからそんな上目遣いしないでええ」
「身長的に仕方ないだろう。頭が高い」


 赤司が戯れの強さで黄瀬の脛を蹴る。不満げな上目遣いは以前より幼げだ。赤司征十郎として背負っていた責の重さを忘れたからだろう。年相応に、だが不安げにおずおずと、赤司が黄瀬とじゃれる。
 黒子は、そんな二人を気配を消して眺めていた。ただただ羨望だけを胸にして。
 黒子を心配して隣にいる青峰、何となく黄瀬といる赤司の側にいづらくて何となく黒子の近くにいる緑間と紫原が、気遣わしげに黒子を見た。


「……まあ、段々赤司の心を開けばいいじゃねえか」
「親密になって、それから思い出させようと努力すればいいのだよ」
「あん時がっつかなきゃよかったね〜」


 青峰と緑間の慰める方向の言葉さえ胸の重さを変えなかったのだから、紫原の歯に衣着せない発言はずっしりきた。青峰と緑間にオイ、というような目で見られても、本人はどこ吹く風とまいう棒をボリボリした。
 現状、赤司が一番警戒を解き、心を開き、懐いているのは黄瀬だ。赤司が目覚めた時に錯乱状態の黒子から庇い、混乱し怯えているところを宥めたのが大きいだろう。
 逆に、一番警戒され、怖がられているのが黒子だ。錯乱して赤司に色々怒鳴ってしまったのが原因なのは言うまでもない。しかも怖がられてことごとく避けられるから印象の改善もままならない。


「まあ黄瀬もさり気なく思い出せようとはしてんだろ」


 そう笑う青峰は、否定しない緑間と紫原は知らない。黄瀬が赤司の記憶が戻る手伝いをしていないことを。仕方ない。彼らは黄瀬が赤司をずっと好いていることも知らないのだから。
 黒子と、本人である黄瀬だけが知っている。
 黒子は青峰の推測を胸の内だけで否定し、赤司に目をやった。初めて見たものを親だと心に刷りこんだ雛鳥のように、ひたすらに黄瀬にだけ柔らかく笑う。
 あの場所は自分だけの場所だった。あんな風に甘く赤司に触れていいのは、自分だけのはずだった。今その唯一の権利を黒子は持っていない。赤司が記憶を失くした時に落ちてしまい、黒子より先に黄瀬が拾った。
 部活が終わり着替えている時、黄瀬に話をしようと誘われた。何についての話かは想像がついていたから頷いた。
 他の誰もいない部室で黒子は黄瀬と対峙する。前まで部室で明日のメニューを考えていた赤司だが、今はその習慣が頭になく、先に出ていった。


「俺が今も赤司っちのこと好きなの、知ってるっスよね?」
「…………もちろんです。今の状況、非常に良くありません。キミを殴ってしまいそうです」
「いいっスよ、殴っても。それで済むなら」


 済むわけないと吐き捨てる。ですよねえと笑う黄瀬には、余裕も愉悦も見当たらない。黄瀬も黄瀬で必死なのだろう。
 笑顔から一転、黄瀬の表情は真剣に変わる。こうして見ると整った顔立ちがフルに際だって、自分では勝てる気がしない、と自信を失くしてしまいそうになる。


「俺ね、赤司っちが知ってた俺を捨ててでも、赤司っちに俺を好きになってほしい。赤司っちの今までが戻らなくても、好きになってほしいんス」
「……そんなの、困ります。赤司くんだって、忘れたままは嫌でしょう」
「うん。思い出したいって言ってた。でも思い出せないなら仕方ないっスよね?」


 赤司の言葉を黄瀬づてに聞くのは辛かった。だが思い出したいと赤司が願っているというのは、黒子にとって希望だ。
 必ず思い出させる――宣戦布告をしようとした途端、ドアが開いた。隙間から覗いた色にハッとする。久しぶりに間近で見た赤だ。


「黄瀬。話は終わったか?」
「ん、終わったっス。つーか赤司っち、待っててくれたんスかー?」
「ち、違う、鍵をしめる仕事があるからだ」
「そっかそっか、待たせてごめんっス」
「お前じゃなく、部室が無人になるのを待っていたんだからな」


 少しムキになっていて、その態度自体が墓穴だ。平静にしていれば赤司の言う建前も通用したかもしれないのに。
 赤司が黄瀬に出るよう促す。と同時に黄瀬の腕を引いて実力行使に出ている。黄瀬が一歩廊下に出てから、赤い瞳が黒子を捉えた。こんな至近距離で目が合うのは久しぶりだ。三、四メートル離れた距離で「近い」と思ってしまうのだから重症である。


「……黒子くんも、出てくれ」
「はい。お手数かけてすみません」


 せっかく近くで話せたのだから少しでも好感度を上げてほしい。そう思い、普段の無表情に精一杯笑みを浮かべ、柔らかく話した。
 黒子にのみ君づけがされているのは今に始まったことではない。記憶を失った赤司が初めて黒子をまともに呼んだ時からずっとだ。
 近しい者にしか分からない程度に赤司の表情筋は硬くなっていた。だが、黒子の態度に多少ほぐれる。それを確認した黒子は更に踏み込んでみた。


「帰り、途中までご一緒していいですか?」


 すると赤司は困った顔をした。まるで、断りたいが無難な断り方が見つからないというような。きっとそれは正解なのだろう。
 赤司は覚えていないが、赤司と帰る方向が最も近いのは黒子だ。前々回の試合の帰り道も、最終的には赤司と二人で帰った。黄瀬のいないところで話したかった。


「ごめーん黒子っち。赤司っちと買い物する約束してて」


 すまなそうにしながら間に割って入って来たのは黄瀬だ。赤司は明らかにホッとしている。これ以上食い下がるとますます敬遠される気がして、黒子は渋々引き下がった。
 赤司が鍵をしめて職員室へ歩く。それについて行く黄瀬が、こちらを一秒振り向いて睫毛を伏せる。明るい黄色の瞳は、憐れみと覚悟と痛ましさを語っていた。後悔はなさそうだった。
 申し訳なく思っていても、汚いと自覚していても、黄瀬は赤司を奪おうとしている。その本気を直に見、黒子の胸が嫌だと暴れる。背中を脂汗が伝った。
 黄瀬が、今まで自分がしてきたように赤司に触れる。赤司がそれを、恥ずかしがりながらも受け入れる――


 ダン!!


 堪えきれなくて横にある壁を殴る。拳の痛みも感じられない。滅多にしない八つ当たりをして、歯を食いしばった。



* * *



「ここが、よく皆で寄ってたコンビニ。アイス食べたりしたっスよ」
「……覚えがないな」


 思い出せない自分を責めるように赤司は俯いた。思い出してほしくなくてわざと思い出の薄い場所を紹介している黄瀬としては、覚えがないのは喜ばしいことだ。しかし縮こまる赤司は見ていたくない。
 いけないいけないと首を振る。申し訳なく思っていても迷いはない。
 今がとても幸せだ。厳しい主将、頼れる同級生の顔しか見せてくれなかった赤司が、こんなに自分に笑いかけてくれる。話しかけてくれる。頼ってくれる。
 このまま恋人になれたら。甘酸っぱい期待を抱かずにいられないくらい、幸せだ。


「やっぱバスケしてる時が一番思い出しやすいんじゃないスかねえ」
「そうか……」


 萎れる赤司の気を紛らわそうと、黄瀬は話題を変える。聡い赤司は黄瀬の意図に気付いただろう。眉尻を下げて笑った。
 コンビニを離れて歩く。黒子に言った「赤司と買い物に行く」という言葉は嘘で、寄り道らしい寄り道は、しいて言えば今立ち寄ったコンビニくらいだ。
 自分の言葉に赤司が笑う。それは今までだってそうだったが、黒子にしか見せたことがないだろう可愛らしさで笑う。当然どんな赤司も可愛いが。


 ずっとこのまま、赤司の記憶が戻らなければいいのに。


 いけない願いでもそれでも、願ってしまう。
 ふと、赤司が歩みを遅くした。黄瀬はまっすぐ、赤司は左へ曲がる分かれ道の手前でだ。


「赤司っち……?」
「最近、違和感を感じるんだ」


 ドクリと心臓が鳴った。嫌な話だと本能が察した。
 寂しそうに、赤司が目を俯ける。


「正体は分からないけれど、感じる。今ここでお前と別れるのも、何故だろう、何か違う気がする」


 頭が忘れてしまっても、心の奥が、体が、覚えているのか。
 違和感の正体を沈鬱な表情で探る赤司に、黄瀬は何を言っていいか分からず。分かれ道を、まっすぐ進んだ。

 
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