短編2

□忘れても忘れない君のこと
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 記憶を失ってから一番残念なのは、黄瀬と違うクラスだということ、黒子と同じクラスだということだった。
 昼休み。騒がしいキセキと昼食をとった後、赤司はたまたますれ違った英語教師に問題集を運んでもらえないかと頼まれた。相当の厚さをもつ問題集をクラスの人数分。多少疲れる仕事だが赤司は承諾した。
 重……と胸の中でぼやきながら廊下を歩く。英語係に頼むのが筋な用をどうして自分に頼んだのかは分からないが、不満はなかった。もしかしたら以前から頼み事を引き受けていたのかもしれない。


「あ……」


 うっかり漏れた声を向こうは聞き取っただろうか。赤司は目に力を込め、不自然なくらいに前を見て、黒子を意識していない風を装った。前方から歩いてくる黒子。今の記憶が始まった時の剣幕を思い出すから、あまり彼を見たくない。それに、同時に、どこかもどかしくなる。
 緊張からか、手に汗が滲む。黒子から離れようと足を横に踏み出す。


「あ……っ」


 ずる、と問題集が手を擦り、ゆっくり傾ぐ。慌てて五指に力をこめるが、数冊が廊下に散らばってしまった。
 問題集を置き、拾い、纏めて持ち上げる作業が、筋肉が強張ってやや痛む腕に待っている。鼻で溜め息を吐き、赤司は膝を折った。


「――どうぞ」


 目に見えるくらい折る前に問題集が差し出された。赤司は目を見開いて瞬きする。誰かが拾ってくれていたなら、拾う最中に気付くのが普通だ。なのに気付けなかった。
 お礼を言いながら、差し出された問題集からその持ち手の顔へ視線を移す――お礼は途中で途切れた。


「大変そうですね。良ければ少しお持ちしましょうか?」
「…………ぁ……いや、いい。ありがとう」
「確かに君より小さいですが力はあります。お気になさらず」


 黒子は、拾った問題集の上に、赤司から数冊奪った問題集を重ねた。
 重くて少し大変だから断ったのではない。嫌だから、黒子といたくないから断ったのだ。だがさすがにそんなことは言えず、赤司は渋々歩き出す。二人の間に会話はない。赤司はひたすら、この沈黙が過ぎることを願う。
 黒子はいつも無表情で、あまり話さなくて、何を考えているか分からない。かと思えば、あの日のように激昂することもあるのだろう。そのあたりも赤司が黒子を忌避する原因だった。
 教室に着いてこんなに嬉しかったことはない。教卓に問題集を置き、もう一度黒子に礼を言う。黒子はやはり無表情でお気になさらず、と呟き、どこかへ消えた。


「……やっぱり、へんだ」


 胸の真ん中が奇妙に疼く。これも恐怖の一端なのだろうか。だがそれにしては怖くない。
 疼痛はしばらくすれば治まったが、もやもやした何かが代わりに生まれた。



* * *



 以前、自分と黒子は仲が良かったと緑間から聞いた時は耳を疑った。赤司が黒子に抱いているものは恐怖以外になく、信じられるわけがなかった。だが短い記憶の中の緑間は純粋で実直で正直者だ。嘘だと否定することは難しかった。


「先入観を捨てて奴と向き合ってくれ。さすがに可哀想なのだよ」


 可哀想。その三文字の漢字は胸を貫いてきた。可哀想と他人に思われるくらい、黒子は傷ついているのか。自分に恐れられていることで。


「……いきなり言われても困る。努力はするから、時間をくれ」
「いや。実はだな。『赤司がお前に話したいことがあるそうだ』と黒子に言っておいた。お前達の教室に待たせてある」
「はあ!?」


 黒子と話さなければいけないシチュエーションを作られて焦る。驚愕する。恐怖する。
 だが、と思い直す。メニューを考え終え、ちょくちょくしていたという緑間との対局も終え、部誌もそろそろ書き終えるような時間だ。黒子の鞄は練習が終わった直後に消えていたから、もう帰ってしまっているだろう。ホッとした。呼び出しておいて自分は行かなかったなんて人としてどうなのだ、とは思ったが。


「どうしてさっさと言わなかったんだ……?」
「黄瀬が帰るのを待っていたのだよ。お前は、黄瀬がいたらアイツを連れて黒子に会いに行きそうだからな」


 黄瀬はモデルの仕事があるのだと、ついさっき帰ってしまった。彼がいたら緑間の言う通りにしていただろうから言い返せない。
 黄瀬がここまで遅くまで残ったのは計算外だった、と緑間は眉を潜める。黒子に罪悪感を感じているのだろう。


「だが、奴はまだ待っているのだよ。行ってやれ」
「もう三時間は経っているぞ?」
「奴にとって、お前を待つ為の三時間は『それくらい』の時間だ」


 あっけらかんと、何の疑いもなく、緑間は言い切った。赤司は唖然とするしかない。
 教室に残っていたら教師に注意される時間だ。電気を点けるわけにはいかないだろう。暗い中、することもなく、ただ自分を待っているだなんて信じがたい。
 だが重ねて言うが、緑間が言うのだ。見に行くくらいはしておこうと結論を出し、赤司は部室の鍵を閉めて職員室に返しに行く。緑間とは部室の前で別れた。
 廊下は静かで暗かった。色んな教室で楽器を吹いて練習している吹奏楽部もいない。生徒がいなくても明るければ。または、暗くても日中並みに生徒がいれば、ここまで別世界には感じなかっただろう。
 日が出ている時とは違いすぎる自分のクラスの前に立ち、深呼吸する。電気はやはり点いていなかった。


「黒子くん……いる……?」


 ドアから顔を覗かせて中を見渡す。黒子は失礼ながら、たまにどこか影が薄いから、視線を二度三度巡らし念入りに探す。赤司の足はいつの間にか教室内に踏み込んでいた。
 そして見つける。窓際の前から三番目の席がこんもりしていた。足を忍ばせてそこへ向かう。


「…………」


 机に突っ伏しているその影は、穏やかに、微かに上下している。中庭の電灯が瞬いて、影から黒色の半分を取り去った。交差して枕代わりにしている腕から寝顔が覗く。赤司はしばらくぼぅっと突っ立って、黒子を眺めていた。
 眠ってしまってまでして待っていたのか。帰ればよかったのに。
 それにしても、どうしてこんなに悲しいのだろう。いや、悲しいのとは少し違う。焦がされるような、変な感じだ。
 寝ているライオンにするようにそっと、黒子の髪に触れる。固くないが柔らかくもない普通の髪だ。黒子が微かに呻くが、起きる気配がないのでじっと髪に手を置いたままにする。


「ん…………あか、しく……」
「っ……?」


 漏れた声がとても悲しげで、声相手に目を奪われた。名前を呼ばれて驚いたのか心臓が煩い。閉じられた目の端は何だか光っていて、彼が瞼を開けると同時に頬を滑った。赤司はびっくりして手を引っ込める。


「……赤司くん。……来てくれたんですね」
「……あ、ああ。すまない、待たせて」
「いいですよ。緑間くんの嘘だって分かってましたから」


 赤司は思わず息を飲んだ。嘘だと気付いていても待っていたなんて意味が分からない。
 黒子が上体を起こして赤司を見上げる。水色の目はあたたかく細められていて、唇は両端がやわらかく上がっている。初めて見る、黒子の笑顔だ。だが眉は下がっていて、印象は悲しげなものだ。
 腰を上げた黒子が、自分はどうするべきか迷っている赤司の前に立つ。胸が不自然に鳴るから赤司は混乱する。恐怖で動悸がするのとはどこか違うから余計に。


「赤司くん……」


 黒子の手がこちらに伸ばされる。傷だらけの猫にするような伸ばし方だ。病室で激しく肩を揺さぶられた時のことを思い出し、体が強ばる。けれど足は動かなかった。
 羽が触れてきたような頼りなさで、不器用な不良が仔猫に触れるぎこちなさで、黒子の指が赤司の頬に着地する。反射で肩を跳ねさせてしまった。
 黒子のもう一本の腕が伸ばされる。頬から手が滑り、背中に伝う。伸ばされた腕の先っちょは腰の上に届いた。匂いがしたと思ったら、水色の髪の感触を頬に感じていた。


「赤司くん、赤司くん、……赤司、くん……」
「……離してくれないか、黒子くん」
「ボクのことは黒子と呼んでください」
「…………離してくれ」
「ごめんなさい。嫌です。……ごめんなさい」


 胸が痛くて、生あたたかいものが広がって。頭がごちゃごちゃしていて、黒子の体温がくすぐったくて、未知の感覚が怖い。もう少しで震えてしまいそうだ。
 力づくで黒子を突き放し、逃げるように教室を出る。自分はどうしてしまったのか。何か考えているのに何も考えていないような、混沌とした頭の中でただ一つ理解する。


 この感覚の名前は「切ない」だ。

 
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