短編

□突破不可能な防壁
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 小学生の頃は、朝の通勤ラッシュと違って夕方は電車も空いているのだと思っていた。夕方に、どこかへ行く人がたくさんいるとは思えなかったのだ。
 中学に入ってバスケ部に入って、大会に出るようになって。夕方に電車に乗る機会が増えてきて、オレは知る。

 どこかへ行く人は少なくても、家に帰る人は多いことを。


 世の中には、帰宅ラッシュという混雑があることを。



* * *



 今日も今日とて、大会帰りの電車は帰宅ラッシュで混んでいた。季節次第で夕方にも夜にもなる六時。今は、どちらかといえば夕方。
 こもったようなムッとした空気や、香水のキツイにおいや、ただ汗をかいたにしてはキツイ誰かの体臭に顔をしかめる。
 オレは首を回して辺りを見回した。人の向こうに、火神と木吉、水戸部の姿が見える。三人共、それぞれ間に見知らぬ他人を挟んでいる。土田らしき頭もある。
 背の低い黒子、小金井、一年ベンチ三人組は見当たらない。ちゃんといるのか心配だが、オレはあいにく、一人を混雑から隔離するので手一杯だ。
 ドアを右に、オレと座席の壁の間に挟んだ黒髪を見下ろす。そんなに身長差はないが。

「…大丈夫か?」

「全然へいき」

「嘘つけ」

「ラッシュかららっしゅつ(脱出)……キタコレ」

「伊月。黙ろうか」

 顔色はそこまで悪くないが、大会の激しさを差し引いても疲れた顔をしている。ダジャレを言う元気はあるのか……と安心はできない。四十度の高熱を出していた時も「熱と熱烈に熱愛しあいます」とほざいたのは他ならぬコイツだ。
 伊月は満員電車に弱い。電車の中で、知らない人と四方八方ぎゅうぎゅう密着するのがダメで、知らない人のにおいがダメで、こもったような空気がダメ。人酔いも乗り物酔いもしないけど、人と乗り物のコラボでは酔うのだ。満員電車の他には例えば、満員バスとか。

 中学時代、はじめての大会の帰り、はじめて満員電車での伊月を見た。伊月は完璧に体から力を抜いて立っていた。密着する周りが、力の抜けた伊月を意図せずして支えていた。
 無表情に目を瞑る伊月の頬は真っ白で、だけどオレと伊月の間には人がいて、何もできなかった。

 だから、電車に乗る時は伊月の隣を離れないようにしている――乗る時「も」が正しいかもしれない。


 グリグリと、伊月がオレのジャージに鼻を押しつける。

「なにしてんだ…?」

「こうすると、日向の匂いしか鼻に入らなくなる…」

 …………。

 ああ、コイツを痴漢しようとしてた奴の気持ちが分かった。こんなに可愛いなら、ムラッとくる気持ちも分かる。伊月黙っててもかわいいし。中学時代から会うようになった、不特定多数の嫌な存在に共感してしまう。

 体の内から揺さぶってくる欲望と奮闘していたら、急に、カーブの揺れが襲ってきた。誰かの体重が背中にのしかかる。オレは伊月を潰してしまわないように、伊月の両横についた手に力を込めた。
 カーブの余波が消えて、皆が体勢を直立に戻した。座っている人の次にカーブの被害を受けなかっただろう伊月は言う。


「…こうして乗るなら、満員電車も悪くないと思うんだ」

「なんで?」

 お前に圧力をかけないようにしたり、痴漢を牽制したり、痴漢をしないように頑張るオレは、結構大変なんだけど。
 きゅ、と弱く、ジャージの裾が引っ張られた。暑いからか他の何かが原因か。オレの目より数センチ下にある耳は色づいている。


「日向に普通にくっつける」


 この熱気の中、知り合いと密着することすら苦痛だろう、と思っていた。だからオレと伊月の間にも空気が入るよう、壁に手を突っ張っていたのに。突っ張らなくてもいいのか。
 オレは壁に付けた手を、自分の体の横に下ろした。



END.



* * *
彼氏ホールドって素敵。
そこは自分の体の横じゃなくて伊月先輩の腰に下ろさないと…と言いたいところですが、今回の日向先輩はヘタレ紳士ですので←

 

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