短編
□唇に乾杯
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他人の目に触れる心配がある場所。学校とか、ストリートとか、大会とか、電車の中とか。
黄瀬と赤司はそんな中では絶対に密に触れあえない。黄瀬がスキャンダルを敬遠しなくてはならない職業をやっているから――そしてそれ以上に、不純異性交遊ではなく、不純同姓交遊をしているから。
それでも、鍵をかけた部屋で二人きりなら、人に見られる可能性はほとんど無い。だから後ろから抱きかかえたり、膝枕してもらったり、キスしたり――恋人がすることをしても許される。
しかし。
「赤司っち!」
「うん?」
「ん〜〜…」
目を閉じて顔を近づけると、唇に柔らかい感触。柔らかいけど少し固い。ぷにぷにじゃない。唇だけにあるはずの感触が、唇の周りにも。
瞼を上げると、手でこちらの口を塞いで月バスを読む赤司が。
鍵をかけた部屋で二人きりなら、後ろから抱きかかえたり、膝枕してもらったり、キスしたり――恋人がすることをしても許される。
しかし。
赤司は、キスを許してくれない。
頬とか、おでことか、目元とか、首筋とかにするのは許される。けれどなんでか唇は許してくれない。
他人と口を合わせるのは遠慮したいが、相手が赤司なら、喜んで、一日中その赤い果実を吸うのに。
まさか自分とキスするのが嫌なのでは? 思い付いた考えに胸を押さえられる。
赤司はそんな黄瀬の不安になどこれっぽっちも気付かずに、雑誌を捲る。黄瀬の隣で、黄瀬のベッドに腰かけて。
ページの端を摘まんでめくる準備をする白磁の指を、唇で挟むことは許されている。指先を甘噛みしたら、赤司は申し訳程度に体を跳ねさせるだろう。黒いワイシャツの影響で余計に白く見える、夏の暑さに汗を滲ませるうなじに噛みつくことは許されている。首の腱だか筋だかの間にあるその窪みに吸いついたら、赤司はささやかに吐息を漏らすだろう。黄瀬は、実際そうなることを知っている。
けれど唇には触れない。
本だったか漫画だったか。誰にでも足を開く女が、たった一つ、誰にも触れさせない箇所があった。唇である。唇の処女だけは、唇の純潔だけは守ろうとした彼女が口づけた唯一の存在は、心から愛する男だった。
そういうことだろうか。自分は赤司からの最大の愛を受け取れる人間ではないのだろうか。
衝動的に赤司から雑誌を取りあげる。取り返そうと瞬時に動く手を避けて部屋の隅に放る。
「何するんだ」
唇と同じくらい妖艶な赤い双眸が、苛烈に黄瀬を射抜く。黄瀬は今だけは赤司の剣幕に怯まなかった。
「赤司っち。キスしよう」
「口は嫌だ」
「…嫌っス」
逃げる暇を与えずに唇を押しつける。念願のそれは手の平より柔らかくて、弾力があった。性急に舌を伸ばしたら噛みつかれた。うっかり離れてしまう。
消毒だ、と赤司は言った。そこまで嫌がるのか。さすがの黄瀬も、受けたダメージは大きかった。
赤司が立ち上がり、ベッドのスプリングが少し動く。机の上の消毒用アルコールを手に戻ってきた赤司は、さっきまで雑誌のページをめくっていた指にアルコールを吹きかけ、黄瀬の唇に触れた。
「赤司っち…?」
「動くな。…口、閉じるなよ」
リップクリームを塗るように、赤司の指が往復する。シワとも言える細い溝の底にもアルコールが届くように、入念に、丹念に。黄瀬は、そんな指に噛みつかないよう己を抑えた。
抑えがそろそろ効かなくなる頃、やっと赤司が指を離した。黄瀬は訳が分からない。どうして、赤司ではなく自分の唇に消毒が施されるのか。
疑問で顔をいっぱいにすると、赤司が気まずそうに目を反らした。言おうか言わないか迷っている顔だ。訊いたら答えてくれる顔でもある。
「…赤司っち、今のは?」
「…………しょうどく」
「…オレの口が汚れたの? 赤司っちの口、汚くないっスよ?」
「……別に、僕も自分の口が汚れているとは思ってないよ。ただ、お前が、…間接キスするのが嫌だっただけで」
真っ赤になっちゃって赤司っちかわいい――じゃなくて。
賢いとは言えない頭を駆使して、赤司の言葉を処理する。どうにか意味を理解して、眉間にシワを刻んでしまう。
赤司とキスすることで間接キスが成り立つというのなら、赤司は既に誰かとキスをしているのだ。
「……オレがファーストキスじゃなかったんスね……」
「ん? ああ。……あの中年親父とあのオバサンと涼太が間接キスなんて、目眩がするよ」
「中年親父!? オバサン!?」
赤司は歳上趣味なのだろうか。そして、そんな親父とオバサンに先を越されたとなると悔しくて仕方ない。
はあ、と赤司が溜め息をつく。溜め息をつきたいのはこっちだ。
「僕も昔はもう少し年相応だったからね……親からのキスを拒んだりはしなかったんだ」
「…………へ? 親?」
「そう。父と母」
「…………」
小さい我が子にキスをするのは、親としておかしくもなんともない。赤司のものの見方はつくづく逸脱している。
親とのキスはノーカウントだから、やはり自分が赤司のファーストキスの相手だろう。甘い痛みが胸にせり上がる。
今まで、自分の親と黄瀬が間接的にキスしてしまうのが嫌で、唇のキスを拒んでいたのか。理由が分かって、なんだろう、毒気が抜かれた。顔がゆるむ。
「でも、最後にキスしたのはオレだから、キスしてももう、親御さんと間接キスしたことにはならないっスよね?」
「んん……まあ、そうなるね」
「じゃあ、キスしていいっスか? 口に」
「…………許可する」
次に伸ばした舌は、噛まれなかった。
END.
* * *
何気に高校設定です。今は二月なので季節真逆ですね。夏の話書いたら少しは暖かくならないかなあ、と思わなかったわけではないです。