短編

□光だけの世界
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 眠る前と起きる時はいつも、不安と恐怖で泣きたくなる。赤司征十郎ともあろう者が不安と恐怖なんかで泣くわけにはいかないと、実際に泣いたことはないけれど。
 瞼を開けた時、己の目は光を見てくれるのか。それが、感じる不安と恐怖の正体だ。気を抜けば日常生活を送っていても思い出す。だから就寝前と起床時は特に不安で恐ろしくて、頭が冴えて一人じゃ眠れないし、目を開けられない。黄瀬が抱きしめてくれてやっと眠れるし、開けられる。


 ――意識が夢から現実に移りきった時、隣で眠っているはずの黄瀬のぬくもりに触れられなかった。瞼の裏を見ながら手を動かして周りのシーツを軽く叩く。布の冷たさと固めの弾力があるだけで、感じ馴れた体温はない。
 目を閉じたままで見る視界は黒に何となく赤が混じったものだ。つまり明るい。黄瀬が赤司が眠っているのに電気を点けるとは考えにくいから、日は昇っている。夜中のトイレにベッドを抜け出したというわけではない。
 もしかして仕事だろうか。高校を出て大学に入って、黄瀬はますます忙しくなっている。今まで赤司の就寝・起床時に傍にいてくれたのが不思議なくらい。最近では紙媒体以外の仕事もしている。それは黄瀬にとってはもちろん、赤司にとっても嬉しいことで。自分に構わず仕事にいそしめと常々彼に言い含めている。なのに実際彼がいないとこの体たらく。これはいけない。

 目を開けようと思った。
 いい機会だ。これからますます多忙になるだろう彼の重荷にはなりたくない。彼がいないと目を開けられないなんて情けない自分は嫌だ。
 瞼を上げようとして失敗する。ピクリとも動かない。心のどこかで怖がっているからか。
 チッと舌を鳴らして人差し指を瞼に当てる。震えが瞼の薄い皮膚を通して眼球に伝わってきた。

 一度深く呼吸をし、人差し指を上に動かす。瞼も道連れだ。


「――、――――」


 白い壁もベージュの掛け布団もテーブルも、何も見えない。


 ただ赤みがかった暗闇だけが、赤司の世界になっていた。



* * *



 黄瀬は歩道を走っていた。昼近くになってきて人が外に出てきて、人混みと過疎の中間くらいに通行人がいる。一刻も早く家に帰りたい。彼が待っている家へ。
 規則正しい生活を送る赤司は滅多に寝坊をしない。夜更かしをしていないなら「滅多に」は「絶対に」に変わる。昨夜彼が眠ったのは日が変わる直前だ。
 自分がいないことに彼は気付いているだろう。瞼を下ろしたままあの赤と橙の宝石を隠して、不安がっているに違いない。彼が眠る時と起きる時はいつも隣にいたいのに。急に入ってきた仕事を恨んだ。断っても彼はなぜか気付いて悲しむから、やむなく引き受けたのである。

 歩く人々を避けながら家を目指す。ファンに呼び止められたくないから、滅多にしない変装もした。帽子とサングラスとマスク。これで呼び止められたら、仕方ないから無視しようと思う。
 住まいのマンションのロビーに入り、オートロックをもどかしく解除する。一階の隅が黄瀬と彼の部屋だ。何かあった時上の階にいたら、彼は逃げるのが難しくなるだろうから。
 廊下も走って部屋に立つ。焦って手元が狂って、鍵が鍵穴になかなか入らない。それが更に黄瀬を焦らせる。


「赤司っち!」


 ようやく鍵を開けて中に飛び込む。靴を脱ぎ捨てて寝室へ走ろうとしたが、自分を呼ぶ声がリビングから聞こえ、そちらへ入った。
 部屋の見通しがいいにも関わらず、入った時点では彼の姿は見えない。右手は手前から順にテレビ、ローテーブル、ソファが丁度いい間隔を開けて置かれている。左手は椅子が四つ付属されたテーブルがある。そしてキッチン。
 リビングから声がしたのに見つからないということは、キッチンだ。三秒でそう考えた時、キッチンの方から自分を呼ぶ彼の声。


「赤司っち! っ…」


 キッチンの床に、彼は座っていた――割れて砕けた数枚の皿と共に。
 乾きかけた血が、彼の白魚の指と、真っ白い皿のなれの果てと、明るい茶色の床にあった。量は軽い重傷といった程度か。目を開けられないまま歩き回ったのだろうか。
 黄瀬の声に反応して彼がこちらを見た。赤と橙の瞳が見える。黄瀬が来たから瞼を上げられたのか。思ってから、彼と視線が絡まないことに震える。彼の焦点は合わず、目は黄瀬の右肩の横をさ迷っていた。


「……りょ、た」


 彼は安心したように、けれど顔に怯えを残したまま立ち上がった。仄白い裸足でこちらへ歩いてくる。とうとう来てしまったこの時に黄瀬は呆然としていた。が、彼と自分の間に白と赤の破片があるのを目にし、破片を踏むのも厭わず彼を抱きとめた。尖りが足の裏に食い込む。構わず横抱きにして、ソファに腰かけた。
 涼太、と呼びながら、彼は己を抱きかかえる黄瀬の腕に両手を当てた。肩、首、顎、と動かしていき、頬を優しく挟んで止める。そして涙のない泣き笑いで口を開けた。


「…見えなくなってしまったよ」



* * *



 もう回復は望めない。


 少なくとも表面上は淡々と告げた医師に怒鳴りたくなるのを堪えて家に帰った。回復は望めない――変化があるとすれば悪化、それだけだということは、前から分かっていた。けれどあまりにも唐突で、やるせなさが胸を暴れまわる。
 ソファで赤司を抱きかかえる。彼の顔は黄瀬の胸に埋まっていて見えない。どんな顔をしているか想像もつかなかった。宥めるように背中を擦っていいのか分からなくて、ひたすらにその体を掻き抱いた。


「……今お前がどんな顔をしているか当ててやる」

「赤司っち…?」


 急に黄瀬の両肩に手を置いて、赤司は顔を上げた。目が合って、もしかして視力が戻ったんじゃないか、なんて残酷な希望を持った。そんなわけないのは赤司の発言で知っている。


「不思議そうな顔、だな。目は瞳と瞼がギリギリくっついているくらいに見開かれていて、口は半分開いている。眉の位置は無表情の時より一センチ上がっている」

「…え……と、」

「今眉を寄せたね。目も細まった。唇は『と』と言った時の形のままだ」

「…………」

「口、閉じただろう」


 迷いのない動きで赤司の唇が黄瀬の唇に重なった。まるで黄瀬の唇がどこにあるか見えているかのように。
 一瞬の軽いキスをして、赤司は笑う。


「さっきは動揺して分からなかったけど、お前の位置は分かるよ、涼太。お前がどんな表情をしているかは、分かる」


 そして一転し、言いにくいことを言う人の顔になった。目線が逸らされる。


「…でもね、それしか分からない。どこにテーブルがあるか、テレビがあるか、はっきりとは分からない」

「大丈夫っス。気にしなくても、」

「家でこれなんだ。外はもっと大変だろう」

「赤司っち」

「だから、別れた方がいいよ」


 黄瀬のことだけは分かる、そんな惚気を聞かせた後にこれはない。上げて落とすを作戦なしにやるなんて。
 何かが頭で切れた。
 赤司の両脇に手を入れて彼を一瞬持ち上げ、ソファに仰向けに押しつける。何か言いかけた整った唇を塞ぎ、閉じられる前に中に侵入する。逃げずに、かといって絡めずに押し返してくる舌を掬って、唾液を送って絡める。途切れ途切れに漏れる上擦った声に興奮した。肩を押し返していた赤司の手に、いつからかすがるように掴まれていた。
 それでも舌の拒否は終わらない。だが限界が近いのか力が弱まっている。
 限界だろう、そんなところで唇を解放する。赤司の唇の端から垂れる唾液は卑猥なのでそのままにしておく。


「愛してます。それだけで充分でしょ?」


 見えていないのとは別の意味で焦点が合っていない目にかかる髪を払う。遮蔽物がなくなった赤と橙が黄瀬を向いた。丸みを帯びた四角形のように、二色は歪む。


「……お前に労力を割かせたくないよ」

「息することは労力っスか?」


 呼吸と彼はイコールで繋がる。彼がかつて、今もわりと、勝利と呼吸をイコールで繋いでいるように。
 炎の色が変わるように劇的に、赤司の表情が変わる。歪みから驚きへ。そして最後に頬を染めた。

 伸ばされた手はやはり迷いなく黄瀬の頬に届いた。



* * *



 意識が覚醒する。けれど目は開けない。もう開けても閉じても変わりはない。
 赤司の体は、香水なんてなくてもいい匂いのする体に柔らかく抱きしめられていた。己の手はそんな体の胸に置かれていて、鼓動が伝わってきて無性に恥ずかしくなる。見えないと他の五感が敏感だ。
 トクトク、手のひらに伝わる脈打ちが速くなった。


「――起きたっスか?」

「ああ。たった今」

「……目、開けないんスか?」

「開けても開けなくても意味がないからね……自棄になってるわけじゃないよ?」


 閉じてる方が無駄な力を使わないから。とんだ面倒くさがり屋だと自分でも思う。
 背中に当てられている手が上へ移動して赤司の頬を包んだ。柔らかく固い、黄瀬の手だ。
 昨日、しょげている黄瀬を元気づけるため、黄瀬の表情なら分かると言い切った。が、実は声を聞かないとあまり分からない。しかも、分かっても実際に見る方が好きで、やはり胸の隅が痛い。
 とにかく黄瀬が今どんな顔をしているのか掴めない。

 喋って。
 そうしないと僕は、お前が怒っているのか泣いているのか、困っているのか笑っているのかちっとも分からない。


「…オレ、赤司っちの目、見たいな」


 ――笑っている。
 赤司の左目より薄い色をした両目をやわらかく細めて、唇の両端をやわらかく上げて、優しく淡く、笑っている。
 真っ黒に塗りつぶされた瞼の裏に黄瀬の笑顔だけ鮮やかで。
 目を開けると色がいっそう、鮮やかさを増した。


「ああ、やっぱりキレイっスね」

「涼太も、やっぱり眩しいな」


 熱いものが目の奥から外へ滲み出る。黒に浮かぶ黄瀬は滲まない。実際に見えているわけではないから。
 それでも、笑う黄瀬は実際見ても同じ表情をしているのだと分かる。それが堪らなく嬉しくて、実際には見られないことが堪らなく悲しくて。涙と笑顔が止まらない。


 赤司は、目が見えなくなると知ってから初めて泣いた。



END.









* * *
お前はシリアスと切を履き違えていないか? スミマセンそうかもしれません。
赤司様の泣き笑いで終わりました! そして何だか紙メンタルです。途中で「あ、甘がない」と慌てて甘に繋げました。押し倒してキス、って何か好きです。甘の部類に入るか微妙ですが。

 

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