その花は愛を囁く

□アガパンサスの囁き
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出会ったのは母の病室。
その青年は突然、きれいな花束を抱えて霞のまえに現れた。

「きみが、石蕗 霞くん?」

さくらの花びらのような唇から発せられた声は甘いテノール。

まるで咲き誇った花のようにきれいで艶やかな声と、それに負けないほど美しいその顔に、花の精霊のようだと思ったことをはっきりと覚えている。


霞は車から降りると、車内とはちがう温度に体を震わせてすこし離れた一軒家へと足早に向かう。
この一軒家は霞のバイト先である宅配専門の花屋だ。

最初は宅配専門なんて経営は大丈夫なのだろうかと心配したけれど、ふつうの花屋では扱っていないめずらしい品種や急な大口注文にも対応できたりするのが功を奏してか、霞はバイト時間を忙しくすごしている。

あまりの忙しさに新しいバイトを雇ってみたらどうかと聞いてみたが、店長いわく、緑の手──花や木を育てる才能を持っている信用できる人が見つからないとのことで、いまだに店長と霞のふたりで切り盛りしている。

緑の手にこだわらなければ見つかりそうなのにと霞は思うけれど、最初に自分へ目をつけた理由が緑の手を持っていることだったので、早々に諦めることにした。

霞としては忙しいのは苦ではないし、すこし変な約束事はあるけれど、ここでのバイトは楽しいし不満はない。
それに繁盛しているからかバイト代も高額で、入院中の母を抱える大学生の霞には願ってもない職場だ。

「実咲さん、ただいま戻りました」
「おかえりなさい、霞くん」

寒さから逃げるように家のなかに入ると、花屋の店長である実咲がほほえみを浮かべて霞を出迎えてくれた。

まるで新婚のようなやり取りに霞はすこし気恥ずかしくなる。
本来なら同姓にそんなことをされてもなにも思わないけれど、相手は実咲だ。

実咲は、ひとことで言うなら美青年。

すらりとした体躯に、すこし長めの艶やかな漆黒の髪。
小さな顔に収まる鼻筋のとおった高い鼻と、さくら色のふっくりとした唇に、ゆるやかなカーブを描く髪と同色の瞳。
その瞳は澄んでいるのにどこか色っぽくて、一度目を合わせたら離すことが惜しいと思わせる不思議な魅力がある。

そんな魅力をもつ相手になにも思わないのはむずかしくて、霞はこのやり取りを何度しても慣れることができないでいる。
いつまでも慣れない霞のようすに実咲はほほえましげに笑みを深めて、霞のこげ茶色のくせっ毛をやさしく撫でた。

「そとは寒かったでしょう? 早くなかに入ってあたたまってください」
「はっ、はい。わ、わかりました!」

撫でられた瞬間、顔がゆでダコのように赤く染まったことがわかった霞はあわてて顔を伏せて実咲のあとを大人しくついていく。

ほどよく暖められた部屋に、霞は着ていたコートを脱いでソファーに座った。
そこにちょうどいいタイミングで、実咲が淹れてくれた温かいハーブティーが目の前に出される。

「配達お疲れさまです。つぎの配達は17時ですから、これを飲んでゆっくりしていてください。私は花の用意をしてきますね」
「わかりました。ありがとうございます」

実咲から差しだされたハーブティーを受けとりながら、言われたことを頭のなかでくりかえす。

つぎの配達は17時。

配達の予定を頭のなかへ叩きこんだあと、霞は小さく気合を入れなおした。

この一軒家という環境ゆえか、それとも出迎えやお茶を出されるなどの対応のせいか、ここが霞のバイト先で実咲はその店の店長だということを忘れてしまいがちなのだ。

不思議な職場だ。

そう思うのは何度目だろう。
たぶん、片手では収まりきらないなと霞は思う。

花屋で働いているのに配達のときにしか花を触らせてもらえないとか、掃除もしなくていいとか思いだせばきりがない。

今では泣きついてラッピングや掃除など細々としたものを任せてもらえるようになったけれど、最初は本当に配達しかやることがなくて困りはてたものだ。

「霞くん、休んでるところにすみません」
「あっ、はい。なんですか?」

ぼんやりと思考を飛ばしていると、肩に実咲の手が触れた。
ふいの接触に心が跳ねたけれど、ハーブティーを飲んでなんとか落ちつかせる。

「新規のお客さまが追加ではいったので、いまからお願いしてもいいですか?」
「あ、はい、今から新規のお客様に配達ですね。新規ってことは、一緒に行きますよね?」
「えぇ、一緒にいきます。あとの配達時間がギリギリになるでしょうし、のこりの花も持っていきましょう」
「わかりました。じゃあ、すぐに車回してきますね」

新規の客に配達するときは実咲もついていく。

これは最初に教えられた約束事のひとつだ。
ほかにも、花の保管室への立ち入り禁止とか約束がいくつかある。

実咲はめったに出ない約束を忘れず、なおかつ気のきく霞に顔をほころばせた。

「お願いします。……ふふっ、霞くんは優秀ですね」
「ほ、褒めてもなにも出ませんよ」
「霞くん。顔、赤いですよ?」
「っ、気のせいです!」

霞は褒められて赤くなった顔をあわてて隠すように手でおおって、車を取りに玄関へむかう。
けれど、部屋から実咲のやわらかな笑い声がかすかに聞こえてきて、霞はただでさえ赤い顔がさらに赤くなるのを感じた。




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