そもそも当山は、今を去る四百有余年前、木食弾誓上人、当山を開き、阿弥陀仏を安置して、無常山一之澤院浄発願寺と称し、天台宗弾誓派の総本山です。開祖木食上人は、法国光明仏と号し、後陽成帝の御宇慶長十三年(1608年)の頃、奥ノ院の巌窟にて昼夜不断の念仏を修し、其の大光明は十方に普く在世の随化、寂後の応験灼かでありました。時の将軍徳川家康公自ら当山に進臨し給うて、渇仰のあまり、開祖上人の誠の修行に心を打たれ、上人の薪、水の用にと、一之澤、二之澤の山林を与えられ、且つ、伊奈備前守をして下記三ヶ条の制文を掲示をせしめられました。     掟一、於当山殺生禁断之事一、不寄僧俗悪口狼籍之事一、一之澤、二之澤の内にて竹木不可伐取之事右條々於相背輩有之者可為曲事者也其の後、第四世空誉上人の時、日光宮、輪王寺法親王より特に上人号を賜わり、以来代々、時の法親王より賜っております。而して享保三年(1718年)徳川幕府より更めて山林十六万五千六百坪を賜りました。時に空誉上人は幕府より罪人五十三人を乞い受け来りて、道心となし、共に山内険難の処を開拓して諸堂宇を建て、漸くにして寺院たるの姿態を観るに至りました。以来、法燈相承、益々繁盛をなし、道俗貴賤士庶の帰依厚く、諸願霊験、響きの応ずるが如し。而して、空誉上人植徳以来、明治維新に至るまで、最も重刑に処せられるべき罪人も、当山の寺院に足を踏み入れば、其の罪を許されることが、官民一般の公認するところとなり、誠に霊徳偉大でありました。其の浄発願寺も、不幸にして昭和十三年の関東一円暴風雨の際、崖崩れの為、本堂並びに諸堂宇ことごとく泥中に呑み込まれ、数多くの文物を失い鳥有に帰してしまいました。かつては、相模国(神奈川県)の天台宗の寺として最も栄えた浄発願寺は、其の後神奈川県並びに伊勢原市、そして十方信心の善男女諸氏の宗派を超えた協力により、一歩一歩、誠の教へを広める可く復興に向かっております。           合掌

浄発願寺の歴史
本堂
延命子安地蔵
阿弥陀三尊
東海随一
唐金弾誓上人像
宝篋印塔
開山弾誓上人修行の岩屋



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