「アイク、こっち向いて」

 目の前の自棄に端正な造りをしている顔に添付された薄い唇が歪む歪む。歪んだそれは俺を見据えて笑う笑う。全くもって不条理なこの世界生き物の接触はこのような形で始まり終わってしまって良いものなのかほら見ろ、イカロスが泣いている。
クレタ島のミノス王の怒りを買ってしまったイカロスとその父は塔に幽閉されてしまった。そんな中で、彼らは希望を捨てなかった。塔から出るために鳥の羽を蝋で固め必死になって塔から抜けようとした。
その後、無事塔から脱出できたイカロスは調子に乗り何処までも何処までも高く上っていこうとした。それが、いけなかったのだ。

(希望が野望に変わる瞬間)

 だから、嗚呼。イカロスは太陽の熱で翼の蝋を融かされ堕落死したのである。あの希望を背負ったままでいたらこの様な失態を犯すことは無かったと言うのに。失望絶望消失堕落の念がぐるぐると気持ち悪いくらいに渦を作って心臓に穴を空けるのだ。

「ほらアイク、」
「…マルス」
「ふふ、どうしたの?こっち向きなよ」

 強いて言うならこの王族の血が通った男はイカロス、俺は太陽と言ったところなのだろうか。俺の様な男が太陽だなんて自分で言うのはとても可笑しい話なのだろうが如何せん、この輝かしい背骨を持った男の皮の中はイカロスと言うことだ。
だから、だから、俺に近付いてはいけない。太陽も好きでイカロスの翼を亡くした訳ではない、訳ではないのか?

「アイク、」

 唇と唇が重なる小さい音が鼓膜に震動する。三半規管に吸い込まれるように浸透してはい終わり、なんてことは無い。目を瞑って何回も何回も俺の唇にそれを重ねてくる男は、きっと自分の立場が分かっていないのだ。
頬に手を添えられ舌が俺の口内を犯した瞬間、イカロスの羽がコロナを掠めた気がした。

(俺が止めろと言ったら目の前の男は何と言ったと思う?もう少しアイクとキスしてから、だと!全く可哀想な頭の持ち主なこと、しかしながらこの唇と唇の結合部に少なからずとも性的興奮を覚える俺は融かされていっているらしい)

(可哀想なのは俺だ、)

(イカロスだったのは俺だ!)

 唇と唇が合わさる行為は続く続く。唇から伝わる熱に融かされる融かされる。俺はこんなに悲しい感性の持ち主だったか、ほら見ろ、イカロスが笑ってる。



(080728.マルアイ/唇と唇)


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