短編小説
□今は少しでも君に安らぎを…【悪夢】
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月明かりを遮断した厚い雲が夜空を覆い尽くし、下界に墨を落としたような暗闇を生む。
土方は夜の気配を匂わせる深夜。ふと目が覚めた。
暗闇が広がる室内で寝息だけが聞こえる筈の静寂。その中で一つの荒れた息遣いを耳にした。
苦しむように呻き声を上げ、時折布の擦れる音が静かだった室内で一際耳に届く。深夜の時間帯ならば外の往来を歩く者も少なく、物音は少しもしないものだけにその音は酷く鮮明に聞こえたのだ。
「銀時?」
土方は突如銀時の名を呼んだ。その理由は己の傍らに横になる男から全ての音の原因がしたからだ。呼んで土方は手探りで隣の銀時の肩に触れた。
じんわりと夜着越しからでも分かる湿った感触。それが汗である事は視界が見えない土方にも十分分かる事だ。
土方の心の中で一抹の焦燥が生まれる。
「銀時」
暗闇に次第に目が慣れてきた。ぼんやりと浮かび上がる室内の風景を無視して銀時の顔に視線を向ける。暗闇でも彼の整った顔が苦痛で激しく歪むのが目に入る。
土方は慌てて掴んだ銀時の肩を揺すった。最初から優しく揺するのではない。早く起こさなければと言う思い一つで銀時を起こす。
その甲斐あってか程なくして汗の粒で濡れた瞼がゆっくりと開かれた。紅色の瞳が暗いのはこの場が暗闇のせいだけはない。そんな懸念が土方の脳裏を過る。
「……ひじ、かた?」
銀時の震える瞼が何とか完全に開ききると、瞳が土方を捉える。暗闇でも近くの土方を視認できたのは土方が吐息が触れ合う程近くで銀時を見つめていたからだ。
一瞬土方が自分を見ている事に理解が遅れる銀時。その証拠に両の瞳の視線が何度も宙を彷徨ったから。
土方は銀時が目を覚ました事に安堵の息を吐いた。揺すっていた肩を掴んでいた手の力を抜き、一度銀時から身を離す。銀時はそんな土方を目だけで追った。
「あれ……土方、何で起きてるんだよ?」
「……お前が魘されてる声が聞こえたからだ」
「あ……悪ィ……煩かったよな」
「……いや」
常の会話のやり取りからは感じ取れないぎこちなさに土方は視線を逸らした。
銀時も気まずさを感じたのか身を起こすとポリポリと寝癖だらけの銀髪頭を掻く。月光が降り注げば彼の透き通るような美しい銀髪が輝くのに。今はそれを拝めない事が口惜しい。そんな事を考えてしまう。
土方は銀時が時折こうして魘される事を知っていた。銀時が弱みを見せたくないと思うなら本人には言わないでおこうと思った事もあったが、それでも彼の怯えようは異常だった。荒く乱れる呼吸の最中で時折紡がれる“先生”という言葉。それが何を意味する事なのかは土方には当然分からない。
だから、こうして銀時が悪夢に魘される理由も知らないし、銀時の過去を全て知り得ない自分がどうしようもなく腹立たしいと思うのは常の事だ。
銀時の為に土方は献身的に銀時の眠りを安らげるように努力してきた。少しでも銀時が安らげる事ができるなら土方は何でもするつもりだった。
しかし、それでも土方には気になる事があった。銀時が口にする“先生”の存在。それを知らなければ銀時の本当の安らぎを与える事は困難だと思ったからだ。
土方は逸らした瞳を布団に落としたまま逡巡した。そして意を決したように顔を上げると銀時に向き直る。強い意思を宿す眼光は真っ直ぐ銀時を見据える。
「銀時。“先生”ってのは誰の事だ」
刹那。銀時の身体が目に見えて硬直した。表情を強ばらせ、眉一つ動かさない銀時はまるで動かない石像のようだ。
暗闇のせいで暗紅色のような色を見せる銀時の双眸が右に動く。土方とは反対の方向へ視線を泳がせた。
「……別に。誰でもねえよ」
声は至って落ち着いていたが、僅かに落ちたトーンと何処か怯えを含む声色に土方の目が鋭く尖る。
「誰でもねえわけねえだろ。お前が魘されてる時、いつも“先生”って呼んでるんだ。何か特別な人なんだろう?」
「……」
銀時は俯いたまま唇を固く閉ざした。恋仲である土方にも言わない事なのか。その事実が土方にはどうしようもなく辛く悲しい事だった。
「俺にも言えない事かよ……」
「……」
辛い本音を晒しても銀時は口を開かなかった。
土方は前髪を掻き上げて小さく舌打ちをした。決して銀時に対しての苛立ちの表れではない。未だ自分を受け入れてもらえていない事への憤りだ。
しかし、それでも土方の心に引っかかるのは銀時の発した“先生”だ。その人物が銀時にこれ程までの影響を及ぼすという事は相当銀時の中で心に残る人物なのだろう。現実の土方を残し未だ影響を残す存在。やはり土方は気になって仕方がない。
「……“先生”ってのは、大事な人か?」
思考よりも先に口がそう言葉を発した。それは銀時の様子を見ていたら自然と想像する可能性。彼が怯えと恐怖を顔に表しながらもその声からは縋る色が見えた。故にそう問うた。
返答は期待していなかった。案の定、銀時からの返事はない。
それに土方の胸に小さな苛立ちが生まれた。今度は己ではなく、銀時に対して。
土方は何とかその苛立ちを抑えたかった。今の銀時は夢に魘されたばかりの子供と同じ状態だ。そんな彼に追い打ちを掛けたくはない。
けれど、土方の形のいい唇はゆっくりと小さな怒りの言葉を口にする。
「……俺より、そいつの方が大事かよ……」
言った瞬間後悔した。自分はなんて愚かな事を呟いたのだろう。後悔と羞恥で顔を覆いたくなる思いで銀時を見る。
彼は俯いたままジッと身を動かさなかった。否、微かに肩の辺りが小刻みに震えている。
土方はギョッと目を瞬かせ銀時の肩に手を伸ばした。銀時がどんな思いで今の言葉を聞いたのかは分からない。ただ、彼が泣いていると思ったのは彼の事を少なからず理解している自分だから分かりえた事だと思う。
土方が触れようとした刹那。銀時は勢いよく顔を上げた。その表情を見た瞬間、土方の息は一瞬だが驚きで止まってしまった。
「……大事だよ……大事に決まってんだろ!」
怒りからか大きく戦慄く拳を握りながら銀時は怒声を上げた。今にも泣き出しそうなその顔で、銀時は喚くように言葉を吐き出す。
「大事だ!大事だけど……っ、俺にはあの人を呼ぶ資格はない。もうあの人を“先生”とは呼べないっ。あの人に顔を合わせる事もできない!」
「銀時……」
「そうだ……俺はあの人を殺したから。あの人の首をこの手で斬った……だから……もう、会えない……」
消え入りそうな声だった。あの馬鹿ばかりやるマダオと呼ばれる銀時からは想像もできない程の弱々しい姿。手を胸に当てて、まるで過去の情景を思い起こす姿に土方の胸は締め付けられる程痛んだ。その痛ましい姿に手をもう一度手を伸ばしたい。そう思うが銀時の纏う危うい空気がそれを制した。
銀時は大きく開いた虚ろな瞳をある一点だけに向けた。その先が何処かなどは土方には分からなかった。今この場にある物体を見ているのではなく、遠い過去をまるで悔いるかのように見ていた。
「俺は戦わなきゃいけねえ……俺が戦って守らなきゃ、先生が死んだ意味がねえ……。苦しくても、辛くても、先生との約束の為に戦って……戦って……戦って……」
「っ、銀時」
「戦って、戦って……!あの人の為にッ、死ぬまで戦わねえと!じゃなきゃ、俺は何の為に、あの人を殺したんだ!!」
喉を引き裂かんばかりの咆哮。それはとても悲痛で、恐怖に満ちていた。
銀時が叫び両手で己の髪を掴んで悶える姿に土方は伸ばしかけていた手を今度こそ伸ばした。両手で震える銀時の身体を押さえつけるようにして包み込み、銀時の動きを制する。それは決して優しい手つきではなかったが、それでも土方には恐怖で怯える銀時を止めたかった。
抱き竦める形で土方は銀時を抱きしめた。力強く、絶対に離さないという決意を込めて。
土方の腕の中で銀時は驚いた様子で身を竦ませた。震える身体は今も震え続けている。それでも土方は銀時が落ち着くまでこのままでいるつもりだった。
そんな土方の耳朶に銀時の低い声が届く。
「土方。俺はお前を利用してたんだ」
土方は大きく目を見開いた。言葉の意味への驚きよりも、銀時の暗く重い声音が先に驚いた。
身体を離さないまま銀時の態度に意識を向けていると、銀時が喉を震わせ笑った。
「土方……俺は卑怯な奴なんだよ。お前が俺に好意を向けているのを俺は利用したんだ。俺は身体を重ねられれば誰でも良かった。誰でも縋れればそれで良かったんだ。過去からも、今からも逃げたくて……縋った。だから、卑怯者なんだよ」
「銀時……」
「だから、もう優しくするな。俺から離れろ。離れないなら俺から離れる。もう、終わりにしようぜ」
銀時の静かすぎる言葉が耳の奥に何度も反響して残る。嫌な耳障りな音だと何処か冷静な自分が思う。
土方は銀時の肩に回していた手の力が抜ける思いを感じた。裏切られたような感覚だとは思うが、その反面で何処かで信じきれない自分がいる。何ともおめでたい自分だと揶揄したい。
閉じていた唇を開こうとした時、土方の両手に違和感があった。それは小さいながらもハッキリとした感触で、その震えを掌で感じた土方は開きかけた唇の端をニッと釣り上げた。
「あーそうかい。それでも俺はいいぜ。お前が俺を思ってなくても」
「……え?」
銀時は土方の言葉を予想外と感じたのだろう。いつもの間抜けな声で土方を見た。
それに土方は銀時を抱きしめたまま言葉の続きを紡ぐ。
「お前がどう思っていようとも。お前が俺を選んでくれた事が俺はすっげー嬉しい。ありがとな」
「ひ……」
「俺はお前が俺を好きじゃなくても、お前が好きだ。だから、こんな悪夢も俺が終わらせてやる。安心しろ」
「……」
「お前が嫌でも俺は離れねえよ。絶対に」
思いを言の葉に込めて伝える。風のように穏やかに流れるその様に言った本人も些か驚きがある。それでもこの言葉を伝えられたのは、銀時の震える身体のせいだ。悪夢に魘された事で震えていたのか。それとも本当は土方の事が好きなのに嘘をつく事の恐怖で震えていたのか。後者ならばそれは土方の驕りだと思った。それでもその震えを感じ取った土方は銀時を離さないと決めた。これは銀時にも拒否権のない決定事項なのだ。
銀時は暫く顔を土方の肩に埋めたまま動かない。やはり銀時の気持ちは彼が述べた通りなのだろうかという不安が過る。
それを打ち消す嗚咽が銀時の口から漏れ出した。
「……ごめん、土方。全部嘘だ。本当はお前の事……好き……すっげー好きッ」
「ああ」
「ごめん……ごめ……」
土方の腕の中で銀時は涙を流す。決して綺麗な泣き方ではないが、それでも土方には銀時の今まで溜めていた思いのタカが外れたように思えた。
全てを曝け出す事は絶対にしない銀時の心の弱さの一部が土方にも分かった事が、少しだけ嬉しくもあった。
そして土方に身を預けて泣きじゃくる銀時の頭を優しく撫でながら、土方は銀時に少しでも安らぎを与えられる事ができるようにと強く決意を固めるのだった。
END