短編小説

□その人は私を人として見てくれる
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「じゃ、先帰るから。朝帰りした事バレたら神楽に何言われるか分かんねぇし」

頭上からか聞こえる小鳥たちの囀りが、ネオンが疎らに明滅する街に早朝の教えを伝えるように響く。
男と女が互いに吐き出した熱とそれに応えた熱の余韻をたぐり寄せるようにして腕を絡め合い、共に柔らかい敷布に身を寄せ合い夢視る中。人影は高い建物の一角から出てきた。
連なる建物の陰から徐々に陽光が地面へと降り注ぐ。その光に反射した色素の薄い白銀の髪は、まるで重力を感じさせないほどに柔らかくあちらこちらに跳ね返っていた。
それを見つめる瞳は上空に黒く伸びた電線にとまる羽毛を纏った小動物たちだけではなかった。銀髪の隣には上へ行くほど泡沫の如く消えゆく紫煙を燻らせる漆黒の男がその白銀の主の隣に立ち尽くしていた。男の顔にはひどく不機嫌そうに端正な顔の眉間に皺を作っている。
白銀の男は一度踏み出しかけた足を百八十度戻し男の顔を覗き込む。男の渋面を視界に収めた白銀の男はさして驚く様子もなく、ただ困った様子で溜め息を吐いた。こんなやりとりはもうこれで何回目か、などと無意味な討論を持ち出す事は決してしない。

「ったく、土方くんよぉ……。いい加減そんなつまんなそうな顔するなよ。これじゃあ俺が飼い犬を捨てて行く最低な主人みたいじゃねえか」

白銀の男――銀時は捨てられた子犬とは程遠い、ギラギラと噛み付くようにこちらを見つめてくる男――土方を見る度にどうしようもない愛しさを彼に向けるのと同時に、己に与えられる土方の溢れんばかりの愛情に、困惑する表情に合わせて知らず笑みが浮かんでくる事には気付いてはいない。土方がそれを自身を小馬鹿にしたと思っている事は夢にも思わず、いつもお互いの意思疎通が微妙に噛み合わない事で喧嘩に発展する事も多々あるのだった。
土方は咥えた煙草を顎で上下に揺らしながら尚も不機嫌な面構えを崩す事はなかった。いや、そのつもりがないと見て取って間違いない。それに銀時は内心ますますメンドくさい男だ、と呆れた様子で小さく嘆息を零す。
いつも相手が思う事は同じでその解決策も決まって同じという事に銀時は気付いている。その答えとして銀時の片手が土方の尖った顎を撫で上げ薄い頬肉に滑らせる。それに土方は漸く寄せた眉を緩めるのだった。

「また明日な」

もう片方の手で土方が咥える煙草の芯を摘み、短い言葉を口から紡ぎ出した己の熟れた赤い唇を土方のモノに押し当てた。ほろ苦い味が口内を満たすように犯し始める。
銀時自らが重ねた唇に土方の機嫌も幾分マシになったのを確認すれば、銀時はやれやれと言った風に肩を上下させた。

「……また連絡する。気をつけて帰れよ」
「はいはい。そんじゃなー」

短い言葉を交わし銀時はひらひらと蝶が舞うように手を背後で己を見やる男に振った。この仕草も互いの別れをする時の決まった挨拶のようなものかもしれない。勿論、振り返りながら手を振るなどという女々しいものではない。
銀時は歩を進める度に思う。自分は本当に幸せ者なのだと。
毎夜土方と体を交じ合えば合うほどドロドロで濃い蜜のような情愛が芽生える。それは理性から感覚までを麻薬のように犯す危険なものに思えるほどに。
最初の頃はここまで相手を好きになるとは思わなかった。けれど次第に体が絆されるその感覚にも似た愛情が支配し、やがて恋に落ちた。土方もまた同じだった。
それが何より嬉しかった。相手に愛されるという事実がそこにある事が。
けれど銀時の脳裏には常に誰かが経にも似た単調で静謐な言葉の羅列が囁きかけていた。
『忘れるな、これは危険な駆け引きだ』、と。
そんなどこか警告じみた声に銀時は耳を貸す事を失念していた。気付きながらも敢えて聞こえないフリをしたと思えなくもなかった。それが後に身を引き裂かれるような後悔が己を襲うという事を知らずに。
銀時は万事屋への帰路に普段使う路地裏を横切ろうとした。陽の光が差し込まないそこは背の高い建物の影に覆われ視界を一瞬遮ったが、銀時は構う事なく突き進む。
数歩進んだ所でふと銀時の足が止まった。視線は真っ直ぐに前方の暗闇を指している。
光が差さない銀時の紅い双眸が何かを見据えるようにして見る。いや、睨みつける。
体をピクリとも動かす事なく立ち尽くす銀時の左手が空を掴むように動き迷う事なく腰の木刀に添えられた。

「……ほんとこんな朝っぱらから殺気ただ漏れて何のようですか?コノヤロー」
「――そりゃあ、あんなトコ見せ付けられたらてめえの首の一つでも掻っ攫いたくなるもんだろ?なあ……銀時よぉ」
「!」

まさか返事があるとは思わなかった銀時が瞼を震わせるほど瞠目した理由は暗闇にいる声の主にあった。
目を凝らさなければ分からないほど闇は濃い。声の主は外界に続く路地の入口から溢れるように漏れ出す光を背中に受ける銀時を見つめていた。そう実感できる。銀時はそんな主の姿を視認しなくても何者かを理解できる己を呪いたくなった。それともいっそこの現状がまだ夢であればいいのに、と眉を険しく寄せ合いながら懇願する。
闇から息を飲み干しながらクツクツと愉しそう笑うその者の瞳が一瞬目に留まる。それは笑う声とは比例しない鋭い嚇怒な眼光だった。
その瞬間、銀時は息が止まった。冷や汗すら凍えるほどに冷たい視線とその裏に隠す事なくぶつけてくる憤怒に身が凍りつき微動すらも封じ込まれてしまった。

(――……嗚呼、やっぱりお前は俺を逃がさないんだな……)

全身から力が抜けるように脱力していく。まるで空気が割れた風船から抜け出し萎んでいく様だ。添えた左手もだらりと地面に向けて垂れ下がると、闇の中の人物が満足げに笑った気がした。
「分かっていたのに」と、銀時に停止し始めた脳内にあの時聞こえた声が呆れた様子で今更のように諌めてきた。その声に銀時は自嘲を込めて鼻で笑い飛ばす。「分かってるよ、そんな事は」、そう答えを返してから闇からフイと紅い瞳を逸らす。
この目の前の男はとても独占欲の強い男だ。おそらく自分にはこれから血を吐くほどの苦痛と恐怖が待ち受けているであろう。そんな事は分かっていたのに、何故自分は忘れていたのか。
後悔が激しく唸るような咆哮を上げようと喉の奥から込み上げてきたが、それを銀時はグッと嚥下して耐えた。ここで自らの弱みを曝け出せばこの男の嗜虐心に火を着けるのは明白で。いらぬ苦労がここで降りかかるのは如何せんよろしくないと思えた。
男は笑声こそ上げなかったが喉を鳴らすその仕草を止めたかと思えば低く空気に通る声を再度上げた。本当にこの声を聞くのは何時ぶりだろうか、等という詮無い思考を押しやる気力も沸かない。

「銀時よぉ。暫く会わない内に随分と尻軽なアバズレになっちまったな……。俺は悲しいぜ?毎日お前を思って止まない日はないってのに、お前はそんな俺の想いを無視して他の男と毎晩寝るなんてなぁ。……本当に残念だ」
「……高、杉……」
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