短編小説

□烏が鳴くから“ ”へ還りましょう
2ページ/6ページ








 日が中天から西に傾きかけた頃。小さな旅籠を営む店主の元に突然訪れた灰買の男が放った凶報に店主は顔面を蒼白に染めた。
 それは深い山々に囲まれ小さいながらも街道に位置したこの町の名主である娘が拐かされたという報だった。
 店主の男は小柄な形の自分よりも頭一つ分背の高い男を見上げながら男が話す内容に何度も相槌を打った。
名主の娘といえば年の頃は十四、五。比較的おとなしめの見目だが顔つきはとても愛らしく、優しい性格からこの町の人たちに随分と慕われる娘だった。
 そんな娘が白昼堂々に何者かに拐かされたという報には店主も含め、傍で客の見送りをしていた女中たちですら驚き顔を悲愴に歪めるものだった。
 近頃、この辺り一帯に風体の良くない男を見かけたという話を耳にしたばかりだった。そのときには店主は泥棒の類か何かだと思い店の戸締りを強化するなどの用心を行ったが、予想は外れ狙われたのはまさか名主の娘の方だとは思わなかった。
 話し好きの灰買の男は興奮のあまり顔を鬼灯のように赤く染めながら口を忙しなく動かし話の拍車をかけていく。

「なんでもその娘さんが日課の神社への参拝に行ってから帰ってこないらしくてよぉ。いつも帰ってくる時間になっても戻らないと知って斎藤様が不審に思われたらしい。家来に様子を見に行かせたらそこに娘さんの簪が落ちていたとよ! 怖ェ話だよなぁ?」

 男は心配をする素振りを見せながらも嬉々とした表情で店主の顔を覗き込んできた。
 店主はその男の顔色に初老の混じった顔を不快げに歪めてみせた。目の前で高揚した顔で一連の事件を話す男の様子には悪感を感じずにはいられなかった。比較的静かで平和な町で起こった突然の事件にこのように気持ちが高ぶる輩がいるのも事実なのである。
 だが他人の不幸を面白半分で話す姿を見るのは店主にとって気持ちのいいものではない。

「ああ、そうなのかい。それは大変だ。ならこのことを他の者にも伝えに行ったらどうだい? きっとまだ知らない者もいるだろうからね」
「おお、それもそうだ。じゃあ、そろそろ行くかなぁ」

 店主が男を追い返すように話の流れをわざと他へ向けさせれば、男はそれに気付いた様子もなくすんなりと店主の言葉に手を叩きながら頷いた。そして手早く地面に置いてあった棒手振りを持ち上げ肩に担ぎ上げるといそいそとした仕草で暖簾が降りる出口へと歩き出す。

「邪魔したなぁ、店主」

 男が肩越しに手を振りながら店を立ち去るのを見届けた店主はその場で重々しく息を吐き出した。
 男の話では奉行所に連絡は伝わっているらしい。直にこの町の人間全員がこの事件を知るだろう。店主としても知らない顔で店の仕事を再開する気にはなれないでいた。
 斎藤と呼ばれる名主の娘は先に述べた通りこの町の人間にとても慕われていた。名主の子供であることを笠に着た態度をとることなく、自らが取った山菜を町の人々に分け与えたり、病気を患った者がいれば自ら薬を届けに来るといったこともあった。斯くいう店主の店の女中が集団で熱を出し仕事が回らなくなったときには愛らしい笑顔を浮かべながら手伝いを申し出たほどだ。流石に名主の子にそこまでのことはさせるわけにはいかないと言って丁重に断ったが。それほどまで町のことを考えるその娘に町の皆はとてもその娘を愛でていた。
 故に店主もまた娘の捜索に参加するつもりでいた。幸い今日の客は先ほど見送りをした客で最後だった。
 店主は羽織っていた紺色の法被をその場で脱ぎ始めた。外は秋季に入り始めたとは言え、まだまだ夏の残暑が残る時期だ。動き回ることで邪魔になる法被を慣れた手つきで畳み傍で控えていた女中の手に渡す。

「今日はもう店じまいだ。先に片付けを済ませておいておくれ。私も今から探しに行ってくる」

女中は店主の言葉に折り目正しく一礼を返すと、暖簾を仕舞うため足早に店の出入り口へ向かった。店主もそれに続いて外へ出ようと女中の背中を追いながら歩み出そうとした。
 女中が玄関に掛けてある暖簾を潜ろうとするよりも先に外から突如伸びた手が暖簾を持ち上げながら一人の旅鴉風の男が店内に現れた。
 女中が驚き小さく声を上げると、店内に入ってきた男は「おっと、驚かせてすみません」と三度笠を被った頭を小さく下げてみせた。

「――すみません。今夜ここで部屋をひと部屋借りたいのですが」

 突如店内に現れた引廻しを羽織った旅人風の男が笠の端を持ち上げながら女中に声をかけた。
女中は男を見上げながら困った様子で背後の店主を振り返る。
 店主はすぐさま男の元へ駆け出し女中の肩を軽く叩いて女中を下がらせた。こんなときに客が来るとは思わなかった店主だが、咄嗟に起こした対応に女中は安堵の表情でパタパタと足早に店の奥へと消えていく。
 店主は極力落ち着いた顔で人の良い笑みを男に向けながら一礼をしてみせた。

「これはこれは、旦那。今日はこちらでお泊りを? それは有難いことですな」

 揉み手をしながら対応を始めた店主はチラリと男の顔を見やる。三度笠の下から伸びる色素の薄い長髪。女色に近い顔立ちは店内に入ってきた頃から見せていた笑みを店主に注いでくる。

「ええ。こちらで一晩宿を取りたいのですが……何か慌てているようですが、どうかしましたか?」

 見目は優男といってもいい痩身の男が背後を振り返りながら再び店主を見下ろした。外の騒ぎは一刻前よりも騒がしさを増し始め、娘のことが皆に広まり始めたのだろうことが分かる。
 店主は酷く困り抜いた顔で銀杏髷を何度も撫で付けた。
 その様子に男は店主の顔色を覗き込み、こちらの事情がただ事でないことを察したように表情を曇らせた。

「一体、何があったのですか?」
「へ、へえ……実はこの町の名主である斎藤様のお嬢さんが拐かされまして……」
「それはそれは……」

 男が軽く目を見張る。
 それを確認した店主は顔を伏せながら銀杏髷を何度も撫で付け、悲愴感を宿した声で言葉を続けた。

「……ですので、今日は私もお嬢さんの捜索に参加しようと思いまして。できれば店の者にも加わってもらおうと思っていまして……今日はこれで店じまいをしようかと思いましてですねぇ……」

 こちらの事情を説明しながら店主は伏せた瞼の下から何度も男の反応を窺った。
 案の定、男は困った様子で店主を見下ろしてくる。客として男がここへ来たのはある意味必然の話だ。何せこの町にある旅籠はここだけなのだ。控えめに言っているにしろ、店主がここで断れば男の今晩の宿はなくなってしまう。店主自身、折角店に訪れた客を追い返すのは大層心苦しいものがあったが、それでも店主は姿を消した娘の行方の方が心配だった。
 こんな身勝手な思いで旅籠の仕事をするのは決して宜しいことではない。けれど店主は一刻も早く攫われた娘を助け出したかったのだ。

「そうですか……そのような事情がお有りでしたか。しかし、私の方もここに来るまで数日も野宿をしていまして。ここが無理だというと、他に泊まれる宿はありませんかね?」

 男の質問に店主は伏せていた頭を更に深々と地面に落としながら申し訳ない思いで小さく声を絞り出す。

「それが……この町で旅籠をやっているのはうちだけでして……」

 店主の言葉に男が思案する様子で低く唸った。

「奉行所にはもう伝えてあるのですか?」
「へ、へえ。恐らく」
「そうですか……」

 男は先程から質問を繰り返しながらこの場を立ち去る気配を見せない。中々探しに行けないことに店主の胸に僅かな苛立ちが芽生えた。

「すみません」

その苛立ちを察したのだろうか。男が咄嗟に店主に向かって頭を下げながら謝罪をしてきた。勿論店主は驚き顔を上げながら何度も頭を振った。
 悪いのは個人的な理由で動く自分自身だと店主は理解していた。目の前の男には何の否もない。
 男はさして気にした風でもない顔で店主に「いいんですよ」と店主の失態を軽く受け流しながら頤(おとがい)に右手を添えた。

「実はですね、連れを待たせてあるんですよ。私一人なら野宿でも構わないのですが、何分もうひとりは子供なんです。結構な道のりを歩いてきたので今日こそは屋根のあるところで休ませてあげたいんですよ」
「は、はぁ……それは確かに……」

 店主は男の言葉にただ相槌を打つことしかできなかった。
 男は言葉尻を最後に何かを思案する顔つきで黙り込んでしまった。店主が黙ったままの男に更に困惑した表情で男の様子を窺いながら「あの……」と声をかけようとしたとき。地面を見つめていた男の目が店主を捉えた。いきなりのことに店主は尻毛を抜かれたように体を跳ね上げた。

「おっと、驚かせてすみません」

 男はここに来てから何度目かの謝罪をこぼしながら、そんな店主の反応に双眸を三日月に描きながら笑ってみせる。

「では店主。予約をさせていただきたいのですが」
「よ、予約?」

 店主は数度瞬きを繰り返しながら戸惑う声で男の言葉を反芻した。

「はい。連れを迎えに戻ってから一度出直してきますので」
「ちょ、勝手に困りますよ旦那!」

 店主は狼狽の色を隠せないままつい大声を上げてしまった。先程から目の前の男はこちらの事情に耳を傾けるものの、全くもって自身の主張を下げようとはしないのだ。何を言おうともこの宿に泊まる意思を変える気がないらしい。
 店主は縋る目つきで男を見上げながら尚食い下がった。

「旦那。また来られてもごお嬢さんが無事に見つかっているか分からないんですよ? それじゃあ旦那の無駄足になってしまいます」
「大丈夫ですよ。きっとその娘さんは見つかります。あなたの話を聞く限り、とても良い娘さんなのですね。あなたがここまで必死にその子を救いたいと思う気持ち、とてもよく伝わりました」
「は、はぁ……」

 店主は只只男の言葉に生返事しかできなかった。
 男が三度笠を被り直すと引廻しの裾をふわりと靡かせながら店主に背を向けた。最初に入ってきた入口の暖簾を潜りながら肩越しで店主に振り返りにこりと微笑みかける。

「烏が鳴く頃にまた来ます」

 男はたった一言を店主に言い残しながら人が行き合う往来の波へと消えていった。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ