短編小説

□烏が鳴くから“ ”へ還りましょう
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 娘は細い体をガタガタと震わせながら体を支配する恐怖に必死に耐えていた。
日課の参拝の帰り道。突如背後から口を塞がれ目隠しをされたまま娘は声を上げる間もなく何者かに連れ攫われた。
 荷車のような何かに乗せられ激しく揺れながらたどり着いた先で再び担がれ、冷たい土の上に投げ出された。その時、漸く体が思い出したように恐怖で震えた。
閉ざされた視界。聞き覚えのない複数の男たちの声。恐怖に頭が支配された娘は何度も何度も父母の名を呼んだ。助けて、助けて、と。
 目尻に熱が帯び、目隠しをされた目元の布がじわりと涙で滲んだ。
 次々と溢れる涙の雫が頬を伝い落ちた時、明瞭とした耳朶にゲラゲラと腹を揺するような哄笑が響いた。

「おいおいお嬢ちゃん。怖いのかい? そりゃすまねェなァ。アンタの父親にたんまり身代金を頂いたら解放してやるからよォ。ま、それまで我慢しててくれや」
「キャッ」

 見えない視界の傍から無骨な指が娘の頬をぞんざいに撫で上げた。細い体で海老のように跳ねながら驚くと、勢い余って体が地面に転がってしまった。
 すると再びその場を埋め尽くす喧騒に近い笑い声。
 娘の涙で濡れた目隠しの布がまた更に熱く滲んだ。本当は大声で泣き出したい。けれど羞恥と男たちへの恐怖がそれを許さず、唇を引き結んで込み上げる感情に必死に耐えた。

「だがよォ、この娘結構上玉じゃねえか。そのまま返すにはちと勿体無くねえか?」

 頬に触れた男の声とは違う声が娘を品定めする言葉を吐いた。
 男の言葉にまた別の男が賛同の声を上げる。

「確かにな。人買いに売ればそれなりに金が入りそうだ」
「まったくだ」

 娘の体が目に見えて強ばった。男たちの視線が娘の体に注がれているのが容易に肌で感じ取れてしまう。
血管を巡る血の気がみるみる下がっていく感覚が顔に現れたのだろう。男の一人が青ざめた顔の娘に向かって声を立てて嘲笑った。

――お父様、お母様……助けて……!

 娘は胸中で必死に父母を呼んだ。見知らぬ男どもに拐かされた不安。今にも怯える心を押しつぶされんばかりの孤独。助けを求める声は恐怖の蓋が喉を塞ぎ、声を上げることすら叶わなかった。

「どうせ身代金が手に入るまで時間があるんだ。折角だからちょいと遊んでやろうじゃねえか」

 娘に一番近い位置にいた男が俄かに動く気配をみせた。その気配に娘が身悶え地面を蹴りながら後方へと下がる。
 その微弱な抵抗に男が可笑しそうに笑い声を上げた。その抵抗すらも余興を盛り上げるための演芸にでも感じたのだろう。
 すぐ目の前に男の気配がある。両手を後ろ手に縛られた状態の娘には満足に抵抗をすることなど不可能だ。体が戦慄き、全身を支配する恐怖に歯の根がカチカチと不協和音を鳴らし言うことを聞かない。

――助けて、誰か……!

 娘のカラカラに乾ききった喉がヒュッと息を呑んだ。
 極限の緊張状態の中で思考が今にも真っ白に弾け飛びそうになった瞬間、ヒュン、と風を切る鋭い音を娘の耳朶が鮮明に拾い上げた。

「ぐあっ」

 骨が鈍く軋む音。地面に乾いた音を立てて何かが転がった。
 その音に続いて短い悲鳴が鳴ると同時に響めく室内。余裕綽々に構えていた男たちが一拍遅れて緊張を顕にし、一斉に鯉口を切る音が響いた。
娘はというと、間近に迫っていた男の苦悶の声を傍で耳にしながら自身の上に倒れてきた大柄な男の体躯に驚き、押さえつけられていた娘の甲高い悲鳴が男たちの喧騒を劈いた。
 倒れた男の指先が偶然娘の目元を覆う目隠しに当たったのか、するりと肌を下へと滑りながら解けた。
 焦点の合わない視界が徐々にその場の景色を捉え始めた。隙間の空いた古びた壁板を四方に立てただけの荒れた小屋の端に娘は転がされていた。身動ぎした際に足の先に硬い何かが当たり視線を下げれば、漆を塗られた一本の鞘が足元に転がっている。

「な、何もんだテメエ!」

 静寂を切り裂く男の怒声に娘は弾かれたように顔を前方へ向けた。
 娘と男たちが一様に注いだ視線の先。娘は自身がいる正反対のところに位置する出入り口付近に目を凝らした。目が眩むほど眩しい落日の陽光を背に小柄な体躯の人物が一人そこにいた。
 子供だ、と娘は直感した。
だが、それと同時にその事実に目を疑い自身の頬を張り付けたい思いで子供を凝視した。
 何故、こんな場所に子供がいるのか。年の頃は自分よりも幾らも年下の少年だ。そんな彼が刀身の峰を肩口に乗せながら自分を見ているではないか。

「おい、何もんだって訊いてんだよ!」

 先ほどの男が再び子供に向かって吠えた。
 子供は声を上げた男に一瞥を向けてから小屋の中にいる男どもをその大きな瞳でぐるりと見渡した。笠を目深に被り、逆光で顔の造形がはっきりと見えない中。その双眸だけは赤赤と燃える炎のようにそこに存在を主張していた。
 娘がぽかんと口を開いたまま呆然としていると、再び視線が交わった少年が唐突に娘に向かって叫んだ。

「走れ!」

 娘は惚けたまま地面の上で座り込んでいた体を飛び上がらせた。そして少年の言葉を頭で理解するよりも先に体が動いた。突然の少年の登場により娘の行動に男たちの反応が一瞬遅れ、その隙に転びそうになる足を必死に動かし入口に向かって駆け出す。
伸びる男たちの手の間を駆け抜け、少年の横を通り過ぎる間際に娘の耳が幼い声を拾った。

「死ぬ気で走れ」

 その声に娘は夢中で小屋から飛び出し草木が生い茂る山中を駆けた。少年の声がまるで娘の背を強く押すかのように、振り返る暇もないまま我武者羅に足を動かし続けた。






 あの子は誰だったのだろうか。
 娘は乱れた呼吸を正すために傍に生える樹幹に手をつき足を止めた。
 記憶を思い返すが恐らくあの見目の子供は町にいなかった。旅鴉の格好をしていたということはおそらく旅をしているの子なのだろう。たまたまあそこを通りがかり異様な状況に気付き助けに入ってくれたのだろうか。
 けれど、何故あの少年は助けてくれたのか。知り合いでもない。まだ年端も行かない子供だというのに。怖くはなかったのだろうか。
 激しく上下に揺すっていた肩が次第に落ち着きを取り戻すと同時に、娘はふと我に返るように汗に濡れた顔を上げた。
 このまま、一人で逃げていいのだろうか。あんな小さな子供を残して自分一人だけが逃げてしまっていいのだろうか。
 ドクドクと未だ熱く脈打つ胸の中心にサァと冷水をかけたような後悔が広がった。自身の行動に思わずその場で小さく嘆いた。
 来た道を娘は振り返った。あの少年の安否に胸が息苦しくなるほど締め付けられる。
 戻るべきか。このまま逃げてしまうべきか。
 逡巡し、迷い思案する思考に足はその場に張り付き一歩も動けない。このまま逃げて町の人たちに助けを求めようにも娘はここがどこでどちらへ行けば町にたどり着くのかも分からなかった。

「どうしよう……」

 途方にくれた娘の足元を照らしていた斜陽は遂に西山に沈み、辺りは宵闇が迫り始めていた。
秋口に入った山中の空気は肌寒く、羽織を身に付けていなかった娘は両手で体を抱きしめその寒さにぶるりと身を震わせた。

「でも、このままあの子を置いてなんて……」

 正義感の強い娘には、見知らぬ少年を置いて逃げることができなかった。例え自身に何の力もなくても、自分一人だけが逃げるという選択肢だけは選べなかった。そんな卑怯者に、娘はなりきれないでいたのだ。
 それでも現実的に自身の力であの少年を助けることはできないという事実が重く鉛のように胸底に沈み深くため息をついてしまう。
 その時、娘の近くに生える茂みの葉がガサリと鳴った。
 突然聞こえた葉音に娘が音のした方へと振り返る。その間も茂みの奥から草をかき分ける音が響き、その音に草を踏みつける音が混じっている。

――……誰? まさか、助けが?

 娘は密かに安堵の息を吐いた。もしかしたら助けが来たのかもしれない。
 緊張と恐怖で強ばっていた体の力が空気を抜いた紙風船のように抜けていく。安堵した表情で娘は咄嗟に音のする方向へと足を一歩踏み出した。そしてその一歩で足を踏み留めた。
 鬱蒼とする茂みは山間から覗いた月の光を受けてそこから現れた人物を朧げに映し出し、それと同時に娘の青ざめた顔色も照らした。

「ここにいやがったか」

 茂みから現れた男は娘を見るや否や、人相の悪い顔に酷薄めいた笑みを浮かべた。
 娘はその男の顔を凝視し、恐怖に息を呑んだ。
 草をかき分けながら娘の前に現れた男の顔に娘は見覚えがなかった。ただゴロツキのような格好と帯に差した腰刀を目にしただけで、この男が娘を攫った男たちの仲間だという想像は容易についた。

「何やら騒がしいと思って来てみれば妙な子供が暴れてやがるし、人質は逃げてやがるしよォ。慌てて後を追って正解だったぜ」

 再び直面する恐怖にその場から動けない娘に大股で近づく男。娘の細い手首に男の太い腕が伸び力任せに掴まれた。骨が軋むほどの痛みに娘が喘ぐが、男は痛みに涙する表情を冷たく一瞥を返すだけだ。
 そのまま引きずられながら元来た道を引き返されていく。娘はその腕を空いた手で何度も叩いた。このままあの小屋に戻るわけにはいかない。また人質に取られたとなれば、あの少年の身が危ない。
 娘の懸命の抵抗など男は意に介しない様子で娘を引きずり、確実に小屋へと戻っていく。
 草をかき分けながら進むたびに娘の柔肌の傷が更に増えていった。肌に走るピリピリとした痛みなど気に留めず、娘は自身が犯した行動に血の気の引く思いで絶望した。
 あの時、迷い立ち止まらなればよかった。あのまま走ればもしかしたら町に着いていたかもしれない。そこで助けを求めることの方が正解だったかもしれない。

――あの子が助けてくれたのに……!

 自ら潰してしまった機会に臍(ほぞ)をかむ思いで唇をきつく噛み締めた。
 縺れる足を無理矢理引かれ進む中、娘は何度も少年の無事を祈った。どうか逃げていてほしい。どうか、どうか、と。
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