短編小説

□烏が鳴くから“ ”へ還りましょう
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 ひっそりと訪れた暮夜を照らす軒灯の灯りを頼りに、店主は疲労が残る両足を動かしながら自身が営む旅籠の暖簾を潜った。玄関土間にある上がり框に腰掛け店主は首にかけていた手ぬぐいで顔の汗を軽く拭う。

「どうでした?」

 水の張った湯呑を横から差し出された。気を利かせた女中が店主に現状を訊きながら湯呑を差し出し、店主はそれに軽く礼を述べてから有り難く受け取る。
 一気に水を飲み干し乾いた喉を一瞬で潤す。生き返った気分で湯呑を女中の手に戻すと、暗い顔のまま店主は深く息を付いた。

「駄目だね……この辺りを探しても見つからない。山の方も探したが、森が深くて難航しているようだ」
「そう、ですか」

 店主の言葉に女中が落胆した表情を浮かべた。店主自身も女中と同じ気分だ。

「もう夜も遅い。それに万が一犯人と出くわしても危険だということで、今日は奉行所の人たちに任せてきたよ」

 店主の疲れきった顔に女中は心配そうに眉を寄せたが、励ましの言葉も希望の言葉もかけてくることはなかった。安易な言葉で万が一のことがあったとき、店主の気を更に落としたくなかったのだろう。

「お前も今日は休みなさい。私も一晩休んだらまた探しにいくよ」

 小さく肩を落としたままの店主に女中は小さく返事をし、一礼をしながら店主に背を向ける。店主もまた戸締りをして自身も早めに休もうと思い、膝に手を付き上がり框から腰を上げようとした。

「すみません」

 店主が立ち上がったのと同じくして玄関先から見覚えのある男の声が聞こえた。顔を上げれば昼間にここを訪れた旅鴉の男が暖簾を潜りながら土間に入ってきたではないか。その背は何故か最初に来た時よりも引廻しが一回り膨れており、店主は意外な人物に目を瞬かせた。

「旦那っ。本当に来てしまったんですか」

 すっかり記憶から忘れていた男についこぼした失言に店主は慌てて口元を手で覆った。
 男は店主の失言に気に留めた風も見せず、膨れた背中の何かを背負いなおす仕草をしながら店主の方を見た。

「ええ。予約をしましたからね。今晩一晩よろしくお願いします」
「そ、それなんですが旦那……まだお嬢さんは見つかっていないんですよ。その約束は無効というわけにはいきませんかね……」

 客は商売の神様。そんな言葉が指針の店主にとって客を追い返すようで大層心苦しい思いでいっぱいになりながら何度も頭を男に下げた。
 しかし男から出た言葉は店主にとって下げた頭を上げるほどの言葉だった。

「それなら先ほど見つかりましたよ。町の外で皆さん騒いでいましたから」
「えっ」

 顔を勢いよく上げた店主に男は三度笠の下で優しく微笑みかけた。
 店主は足早に玄関に向かい外に飛び出す。町の入口の方から提灯の明かりが煌々と幾つも点っている。あれは捜索をしていた奉行所の者たちだ。それが町に戻って来たということは恐らく見つかったのだろうか。
 店主はこの短時間の内に娘が見つかったことが信じられず、唖然とした顔で左右に揺れ動く提灯の灯りを凝視した。

「これで、泊まれますよね?」

 背後からかけられた声に店主はハッとした様子で男に向き直った。

「も、もちろんです! おい、この方を部屋に案内しておくれ」

 店主は予想外のことに驚き汗で濡れた銀杏髷を撫で付けながら奥にいる女中を呼んだ。パタパタと足音を立てながら先ほどの女中が駆け足で駆けつけ、男に店内へと上がるよう促した。
 男は女中の案内に従おうと草鞋の紐を解こうと屈みかけた時、何かを思い出したように顔を上げて再び店主を振り返る。

「それと店主。医者を呼んでいただきたいのですが」
「医者、ですか。どこかお体の調子が悪いので?」

 店主の言葉に男はゆるゆると頭を振る。

「いえ、私ではないのです。私の連れが山道で転んで怪我をしてしまいまして」

 店主は一度首を傾げ、男の言葉に疑問符を浮かべた。

「あ、こちらの方です」

 男は店主の不思議そうな顔に苦笑しながら自身の背に視線を向けた。
 そこで漸く合点が行った。納得した声を上げながら男の膨らんだ背をしげしげと眺める。この膨らみは連れの子供だったのか。

「それは大変でしたね。すぐに医者の手配をします」
「ありがとうございます」

 男が礼儀正しく会釈を返すと、女中に案内されながら店の奥へと進んでいく間際に「それにしても」と店主が男に気になっていた質問を何気なく訊ねた。

「旦那も運がいい。ちょうどいい時に戻ってこられましたからね」
「言ったでしょう? 烏が鳴く頃にまた来ます、と。きっとその頃には事件は解決していると思ったんですよ」
「その、気になってたんですが……烏が鳴く頃というのは?」

 男が立ち去る時の言葉を思い出しながら店主は首を傾げた。烏が鳴く頃の意味が未だ分からないままなのだ。
 店主の疑問に男は微笑みながら中空を仰いだ。張られた天井板の通り越してその先を見ているような視線だ。

「烏は夕方頃によく鳴くでしょう? ただ単純にその頃には解決していると思っただけです。偶然にも、本当に解決しましたけどね」

 店主は男のどこか遠くを見る目に「はぁ」と生返事しかできなかった。
 確かに夕方辺りに烏が一斉に鳴き出したのを覚えている。そしてやがて日が暮れ事件は解決した。
 だが、男のどこか曖昧な表現に店主は胸の奥に何か引っ掛かりを覚えていた。
 男の言葉に店主は腑に落ちない顔で首を傾げていたが、女中に促された男はそのまま詳しく語らないまま廊下の突き当たりにその姿を消していった。

 後に店主は語る。
 土間に残された意味深い男の笑顔が妙に頭の中に残り続けたという。
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