短編小説

□逃走
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降りつける雨が地面に激しく落ちる。
数メートル先の視野などほとんど分からないほどの視界の悪さ。
それが水たまりを蹴りながら走る銀時の姿を隠すには好都合なものになった。
だがそれと同時に銀時の視界を妨げるものでもあったので、本人にしてみれば幸か不幸か曖昧な状態だと思える。

「……はぁ、はぁ……もっと、遠くに逃げねえと……」

曇天から舞い降りる雫で体温を徐々に奪われる己の体は、寒さで歯の根が合わず常に小刻みに震えている。
万事屋には戻れない。
あそこは“アイツ”が先回りしているかもしれないからだ。
しかし荒く乱れた呼吸を整わないとこのままでは自分の体がもたないかもしれない。
そう思い銀時は視界の悪い周囲に目を凝らした。
生憎と身を隠す場所などなく、仕方なく目立たないであろう建物の間にある物陰に一時身を潜める事にした。
少し体を休めたらすぐにここを離れよう。
そう決心し周りをぐるりと見渡す。
地面と屋根を叩く雨音が銀時の鼓膜に伝わるが、そんな雑音など気にもとめずただ周りから聞こえるかもしれない気配と足音だけに全神経を集中させた。
銀時がここまで逃げる事へ執着する理由。
それはここ数日間のある男の監禁生活にあった。
思い出しただけでも身の毛のよだつ記憶だ。
そこからなんとか隙をついて逃げだした銀時は行くあてもなくかぶき町を彷徨っている。
もし、誰かに匿ってもらえばその者は“アイツ”からどんな目に合うか分からない。
だから逃げるしかない。
これが例え終わりない逃走でも捕まらないためにはそれしかない。
雨足が一段と激しくなった。
もはや視界は己の伸ばす腕の長さほどしか見えない。
耳に届く雨音も煩く、これでは気配も察知するのも難しい。

「こんだけ降ってれば大丈夫、か……?」

ここに居てはいずれ見つかる。
もっと遠くへ移動するためにこの雨に乗じて進もう、と決め腰を上げ物陰から身を出した。
その時。
ヒヤリとした感触が己の濡れた腕に触れた。
目を見開き背後から掴まれた腕に驚く銀時の体は石像のように硬直する。
ドッドッ、と心臓が壊れるのでないかと思うほど激しく暴れ、耳につく。

「みつけた」

辺りを支配するはずの雨音が消えたと思うほど、その声は銀時の耳に明瞭に届いた。
頬を伝う雫は雨なのか汗なのか分からない。
ただここで振り向けない自分はひどくこの男に畏怖の念を抱いているのだろう。

「やっと捕まえたぜ?……銀時」

喜悦に浸る声の主は空いたもう片方の手で銀時の肩を掴みやんわりと手前に引く。
その行動に銀時はなすがまま相手に振り返る事になる。
怯えた表情を浮かべる銀時の顔は相手の男――土方と間近にあった。
底冷えするほどの双眸に覗き込まれ銀時はヒュっ、と息を呑んだ。
掴まれた腕は今も健在で、一生離すものか、という意思の表れにも思えた。

「ああ、こんなに冷えて……。早く風呂に入って暖かくしなくちゃな。それに腹も減ってるだろう?お前のために用意した飯があるから早く戻って食わなきゃな」
「ひ、ひじか……」
「それと。今度は勝手に逃げないようにちゃんと鎖で縛らないといけないな」

土方の纏う常軌を逸した空気に銀時は動けない。
ただ体が震えるだけ。
掴まれている腕が痛い。
土方は「それとも」と、名案でも浮かんだ表情で言葉を続ける。

「いっそ絶対に逃げられないように足を切り落としてやろうか。そうすればテメエは一生俺から離れない。……ああ、大丈夫だ。痛いのは少しだけだからな」

恍惚と向ける土方の瞳はただ一点。
銀時だけを見ていた。
逃げ出したい、けれど体が動かない。
このまま土方に捕まれば今度は何をされるか分からない。
きっと今までより酷い事をされるのは明白だ。

「い、や……ッ」

動かない体を叱咤し無理矢理腕を振るった。
拘束された腕から逃れようと、必死にもがく銀時に土方は一笑を浮かべる。
そして。

「ッ、が……!」

骨を打つ鈍い音がすぐそこで聞こえた。
左の側頭部に衝撃が走り、体ごと頭が建物の壁に当たり目の前に火花が散る。
脳震盪のようなものが起こりズルズルと壁に沿って体が泥濘んだ地面へと座り込む。
壁には生々しく血の跡が尾を引いて残り、凄惨さがにじみ出ていた。

「……ッ、ハァ……ッ」

荒く息を吐きつけると目の前に土方がしゃがみ込んで来て目線を合わせてくる。
痛みに目を細める銀時の頭に、優しい仕草で触れてきた。

「ったく、傷ができちまったじゃねえか。テメエはほんとにそそっかしいな」
「ち……てめ、……が」
「やっぱりこんな怪我しねえよう、ちゃんと捕まえとかなきゃならねえみたいだ」
「ッ……!」

まるで自分のした事を理解していない土方。
銀時がそんな土方の異常さに恐怖し身を捩りなおも逃げようとするが、乱暴に髪を掴まれる事で阻止される。
痛みに顔を歪めると、傷口に舌を這わされた。
ねっとりとした粘液を伴い舌が傷口を抉り痛みで悲鳴が上がる。
苦痛と気持ち悪さを必死に我慢をすれば、満足した様子で舌が離され目の前に土方の顔が再び現れた。
見る者が見ればゾッとする笑みを浮かべ土方はこう告げる。

「テメエの血はやっぱり甘ェな。このまま喰っちまいてェ……」

犬歯を覗かせ近付いて来る唇。
避ければ次は何をされるか分からないという恐怖で銀時は唇を受け入れてしまった。
本当に喰われるかもしれない。
この男に坂田銀時という存在は一片の肉片も残さず喰われる。
そう確信したからこそ逃げ出した。
結果、逃走劇はあっけなく終わってしまったが。
くちゅくちゅ、と卑しい水音を立てながら交わされる口づけに銀時は耐えた。
逃げたい。
けれど逃げられない。
恐ろしい、この男が。
銀糸を繋げて離された相手の唇が優しく言葉を紡いだ。

「あいしてる、銀時」



END

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