REBORN!
□憎らしい程に愛しくて
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煌びやかなメイン通りを逃れるように入った一角。
申し訳程度に掛かった看板は必要以上に闇に浮かぶことはせず、今宵も静かに迎えてくれる。
僅かに足元を照らす街灯のみを頼りに、薄暗い急な階段を降りていく。やがて現れた重厚な造りの木製扉を、男は躊躇うことなく引いた。
まるで時の流れに取り残された様なこのBARは、男にとって数少ないお気に入りの場所の一つだった。
いつ訪れても客は疎らで、それぞれがひっそりと自らの時間を楽しんでいる。
男はカウンター席の奥の奥、既に彼の定位置となっている席に着き、まるで呼吸をするかの要領でタバコに火を付けた。
軽く見渡せばダークオレンジの光が店内を緩く照らし、無数に陳列するアルコールの瓶を鈍く反射している。
深夜をとうに過ぎたこの時を不粋に刻むものは何もない。そんな、まるで外界から隔離された空間を求めとしまうのは、そもそも日向向きではない己が性質故なのか。はたまたその生業故か。
白く立ち上るチープな煙の向こうに、上等な背広の紳士が見えた。
金曜の夜。彼は必ずあの席でただ一杯のグラスを傾ける。いつでも自分より先に現れ、そして自分より先に帰ったことは一度もなかったと記憶している。
年季の入ったアルマーニの男は、氷の溶け切った見るからに不味いウィスキーを、また一口味わっている。
向かいには深い海色のカクテルが、今夜も持ち主を待ちながら水面(みなも)を透明にさせていた。
フィルターぎりぎりまで短くなったタバコを灰皿に押し付けていると、計算されつくしたタイミングで目の前にすっとグラスが差し出される。これもいつも通りでごく当たり前のことだ。
男がここへ通う理由は店主にもあった。その初老の優男はカウンター越しに軽く目を細め『ごゆっくり』と一言だけ告げ、先ほどからまるで何かから逃れるようにグラスを空ける、いかにも娼婦らしい女の話し相手に戻って行った。
ベビードール風のドレスを纏ったその女は、年の頃三十路半ばと見える。ここに集まる──引き寄せられる──客は相互不干渉、世間から逃れて安息を求める者が多いため、さもワケありな女が一人で飲んでいたからといって大して珍しくは映らなかった。
しかし今ここで問題なのは、彼女の腹部がはた目から見ても分かるくらいに膨れていることだ。
いくらなんでも妊婦にアルコールなど…と困惑を隠さず店主を見れば、男はまた緩く目を細め、ピンと立てた人差し指を口元に当てた。そのいかにも気障臭い仕草を店主は嫌味なくやってのけたのだ。
なるほど、あのロックグラスの中身はおそらく酒ではないのか。確かにあの酔い方ならば、途中から中身が変わっていたとしても酒だかジュースだか分かるまい。
男はしてやられたと肩を竦めて見せ、再び自分の時間へ帰ることにした。
その男、リボーンは、この賢い店主を大変気に入っている。彼より二世代ほど歳上の男は、このカウンター越しに幾千もの人生を目の当たりにし、幾万もの酒でドラマに華を添えてきた。時に影となり、時に空気となり。時に詩人となり、また時には愚者までもを演じ、彼はここで見つめ続けているのだ。
深く何をも見透かすようなその双眸ときたら、正体を明かさず特に疾しいことのないこの自分でさえ、一瞬目を反らしたくなるのだ。
「隣、よろしいかしら?」
「…ああ」
珍しい夜もあるものだ、リボーンは思う。というのも、この店に通うようになってから店主以外に話し掛けたことも話し掛けられたこともなかったからだ。
また同様に他の席でそういった光景を目にすることもなかった。
一般的に見てかなり目立つ容姿のリボーンにとって、こんな都合の良い場所はない。一人の時間を楽しめる、そんな貴重な空間を、例えば女を口説くためになど絶対に使いたくはなかった。
「強めの、下さる?」
店主と女の短いやりとりの中で、彼女が初めての客ではないことを知る。自分は見掛けたことはないがおそらくそれなりの常連なのだろう。
「アンジェラよ」
貴方は?と言外に訪ねられる。
特に馴れ合う気はないが、自他共に認めるフェミニストであるリボーンは本当は面倒で仕方がない内心をおくびにも出さない。
「残念だが名乗るほどの者じゃない」
こんなところでビジネス用の偽名を使う気にもなれず、無理矢理会話の流れを遮った。
「そうね、…cupo…」
「は?」
「今宵はそう呼ばせていただくわ」
ブラックスーツにボルサリーノ。ネクタイや瞳に至るまで徹底して黒いリボーンの出で立ちを見たその女、アンジェラは彼を『闇』と呼んだ。
手入れの行き届いた艶やかな長い黒髪が彼女の白い肌を一層引き立てている。
切れ長の目元は知的な印象で、その派手すぎない硬派な服装はお世辞ではなく彼女に似合っていた。
正直BARで知らない男に声を掛けるような女には見えない。
「「乾杯」」
何にというわけでもなくグラスを合わせると、アンジェラは色味の薄い唇にルビー色の液体を寄せた。不思議な雰囲気を持つ女だとリボーンは思った。
整った顔立ちをしているにも拘らず、微笑むとどこか困ったような苦笑じみた笑顔が浮かぶ。それがまるでどこかの誰かを思わせて、リボーンは小さく自嘲した。
あいつのことを考えたくなくてここへ来たというのに、こんな似ても似つかない赤の他人に思い出させられるなんて。
頭に浮かべばもう消えてなどくれない。唯一の愛しい存在。今頃は眠ってしまっただろうか、それともまた一人で泣いているのだろうか。
「ため息ばかりね。恋人と喧嘩でもしたのかしら?」
「…まあ、そんなところか」
その、苦笑めいた笑顔で妙に勘の良いことを言う。──この女わざとか?などと、リボーンにしては珍しく自虐的な考えが頭を過った。
一人で呑みたいと内心欝陶しく思っていたリボーンが、彼女に少なからず興味を持った瞬間だった。
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